ひめたか鉄道2018

会社を定年退職して嘱託になり時間ができたことと、会社行事で見たアニメの銀河鉄道に出てくる車両に触発されて、これまで時間に追われてほとんど出来なかった鉄道模型を、ちょっと真面目かつ気楽に再開することにしました。

1968年8月の九州旅行〜瀬野八後補機の謎 (1969年8月の東尋坊・永平寺も)

2021年に入ってから模型そっちのけで自宅と実家の整理に大半の時間を割くことになり、色々と古い写真や史料が出て来ました(これのセイで片付けがなかなか進みません)。そこで還暦を過ぎて急速に衰えてきた記憶が完全に錆びつかないうちに昔の旅行の行程を確認する事にしました。f:id:himetaka2018:20210509130025j:image記憶にある最初の家族旅行は、1968年8月20日〜22日に行った熊本・阿蘇山で、残念ながら列車等は一切撮影していません。上の写真は乗車した電車急行から撮った唯一のもので、ボケていて食堂車の位置がわからないうえ色彩が失われているので475系か153系か判別できませんが、先頭か最後尾あたりに乗っていたみたいです。f:id:himetaka2018:20210509112914j:image現時点で断片的に残っている記憶(下記①〜⑩)を基に交通公社の国鉄監修時刻表1968年9月号と照らし合わせるつもりでした。f:id:himetaka2018:20210515161858j:imageヨンサントオの前月号なので買ってある筈ですが見つけることが出来ず、仕方がないので手元にある1967年9月号を使って検証しました。この時刻表から実際に旅行に行くまでの間の1967年10月にダイヤ改正があり、乗車した「しらぬい」はこのダイヤ改正からの運行で、また「ひまわり」や「火の山」も本数等に変化があったので、これらはネットで1964年4月現在のものを探してきました。f:id:himetaka2018:20210425212447j:imageちなみに1967年10月号をネットで調べてみると五千円近い価格が付いていました。結構需要があるんですねぇ〜有名なヨンサントオは電子版が復刻されていて1,466円で買えます。f:id:himetaka2018:20210425213613j:image【一日目】
①始発の姫新線(気動車)に乗ったらしく、行商のおばさんが数名いた。
②姫路から乗った電車は超満員で、どの辺りかで親に呼ばれて移動したら座ることが出来た。
③乗った電車は「しらぬい」だった。

先ず③の記憶から急行「しらぬい」を調べました。この列車は1967年10月に「有明」を改称して1968年9月末まで運行されたので乗ったのは間違いなさそうですが、岡山発熊本行のため姫路から岡山まで別の列車に乗る必要があります。時間的に合致するのは姫路発06:25の1431Mで、この乗り換えが②の記憶になったのではないかと考えました。ただ1431Mは姫路始発で、かつ発車時間の20分以上前に到着しているのになぜ座れなかったのかは疑問です。f:id:himetaka2018:20210509134239j:image車掌さんに頼んで撮らしてもらったのか、関門トンネル門司口の写真が残っていました。
熊本以南が電化されていなかったこの時期の熊本駅にはC60やC61がゴロゴロいた筈で、一枚も写真がないのは今から思うと勿体ない話です。
姫新線852D 播磨高岡05:57→姫路06:04
山陽本線1431M 姫路06:25→岡山08:03
急行「しらぬい」岡山08:30→熊本17:38

【二日目】
④熊本城から水前寺公園に行った。ほとんど覚えてないが、何故か親父が怒って途中からいなくなったことだけが鮮明に残っている。
⑤母親から乗っている列車の名称「ひまわり」が、花の名前ではなく循環列車の意味であると聞いた。
阿蘇山で火口まで行ってマウントカーを見た。また山を下りるバスがなく、白タクに乗った。
⑦別府には食事付きの宿に泊まるにしては遅い時間に着いた。

④の記憶から午前中に熊本城と水前寺公園を見て、昼から移動して阿蘇山へ行ったと思われます。これに該当するのは水前寺発12:07の急行「第1火の山」と14:34の急行「第2ひまわり」ですが、⑤の記憶から「第2ひまわり」に乗ったとすると阿蘇に15:46着です。f:id:himetaka2018:20210509133148j:image⑥の記憶にある火口まで行くには阿蘇駅からバスとロープウェイを乗り継ぎ、約1時間かけて火口西に行く必要がありますが、最終の別府行急行「第2火の山」は阿蘇を17:49発なのでちょっとギリギリかな?という気がします。ひょっとしたら白タクに乗ったのは、バスでは列車に間に合わなかったからかもしれませんね。この「第2火の山」の別府到着は20:00で⑦の記憶に合致します。f:id:himetaka2018:20210509133110j:imageなお、マウントカーとは火口西と火口東を専用道路で結んでいた車両で、前1軸・後輪2軸の全輪駆動とし、火山弾対策のため開口部を小さくした窓ガラスに防護カバーを取り付けていました。
急行「第2ひまわり」水前寺14:34→阿蘇15:46
急行「第2火の山」阿蘇17:49→別府20:00

【三日目】
門司港駅からバスで関門トンネル人道入口へ行く途中、道路脇にあったトンネルが強く記憶に残っている。
関門トンネル人道出口から下関駅までは路面電車に乗った。
⑩下関から姫路まで乗車したのは「関門」で、セノハチでデッキ付きの電気機関車の後押しと走行中の解放を見た。

⑧の記憶にあるトンネルは市営田野浦公共臨港鉄道の和布刈トンネルで、平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線としてトンネルと共に現存しています。(↓関門トンネル人道門司口)f:id:himetaka2018:20210509134528j:image⑨の記憶にある路面電車は山陽電気軌道(現サンデン交通)で、位置的に御裳川(電停)から下関駅まで乗っています。(↓関門トンネル人道下関側口から対岸を望む)f:id:himetaka2018:20210509134208j:imageその後に乗った下関から姫路まで直通していた列車は「関門」と「つくし」のみで、⑩の記憶から下関12:20発の急行「第2関門」を利用したものと思われます(「つくし」の場合は475系なので、セノハチでの後押しがない)。この急行電車は153系で6M6Tの12両編成のためセノハチを単独で登ることは出来ず、電車の後押しが廃止される1968年10月改正までは「宮島」「関門」ともEF61+オヤ35で後押ししていた筈です。いくら50年以上前の記憶とはいえ目の前にあったのが客車だったのか電関のデッキだったのかを間違えて覚えるとは考えにくいので、後押しが無くなる直前はEF59になっていたのかと考えたのですが、いくら調べても153系をEF59が押したという記録は出てきませんでした。写真がないのでEF59だったとも言い切れず謎のまま残ってしまいました。一緒に見た父親は亡くなってしまいましたし…f:id:himetaka2018:20210509171651j:imageその後で尾道大橋を撮影していますが、この時続けてパチパチと2枚撮ったら「勿体ない」と父親に怒られた事を憶えています。
急行「第2関門」下関12:20→姫路19:49
姫新線833レ 姫路20:36→播磨高岡20:42
この姫新線の列車は3桁の列車番号なのでC58牽引ですね。

以上で、1968年の行程は瀬野八の後押し機以外はほぼ解明されました。また電車急行については編成・号車番号・席種別も調査済みで、一等車は冷房・二等車は非冷房でした。
急行 しらぬい:475系12両編成(門ミフ)
熊本←①TcM'McTbTsTsM'McTcTbM'Mc⑫→岡山
Tsはサロ455淡緑帯付一等車で、5号車は自由席、6号車が指定席、また7号車は二等車指定席、60Hz識別用の裾帯は1967年8月生産分から付随車にも付けたので、この頃は全車にあったと思われます(1981年頃に消滅)。
急行 開門:153系12両編成(大ミハ)
下関←①TcM'MTbTsTsTbM'MM'MTc⑫→大阪
Tsはサロ152淡緑帯付一等車で、5号車は自由席、6号車が指定席。

この次の年の1969年夏には北陸を旅行しており、1968年10月の改正で復活した急行「ゆのくに」で東尋坊永平寺へ行ったはずですが、記憶も写真もほとんどありません。
①電車急行の「ゆのくに」に乗車、金津から三国線に乗り換えて東尋坊に行った。金津を出てすぐにトンネルがあったことを覚えている(昔はトンネルが好きだったみたいです)。
東尋坊に向かったバスの中から線路を見た。
③泊まったのは芦原か三国だった。
④電車に乗って永平寺に行った。

①の急行は大阪を時50分に発車する「ゆのくに1号」で金津に13時丁度に着きます。三国線は乗車した2年半後の1972年2月29日付で廃止となり、翌3月1日に金津は芦原温泉に改称されました。また記憶にあるこのトンネルは千束トンネルで、拡幅されたものの現存しています。
②の記憶から線路は京福電気鉄道三国芦原線で、これを見たことから京福電鉄には乗り継がずに三国駅から東尋坊行きのバスに乗ったものと思われます。
③と④の記憶から、宿から三国線で金津まで戻り、この駅から出ている京福電気鉄道永平寺線(乗車直後の1969年9月18日に金津-東古市間が廃止)に乗って永平寺に行き、帰りは東古市で越前本線に乗り換えて福井駅へ出たと考えられます。
この旅行は、性格上母がいないと飯を食わない父親が来なかったので、餓死しないように1泊だけの旅行だったと記憶しています。
なお、この7年後の1976年3月にも大学受験のために福井を訪れており、その帰りにディーゼル急行のデッキで縦に揺られながら鳩原のループを見たことを覚えています。米原経由のため琵琶湖も同じ方向に見えていたはずですが、こちらは全く記憶にありません。この列車は1978年9月末まで走っていた七尾線乗入れ輪島のキハ58系急行「ゆのくに2号」で、穴水-金沢間は珠洲発の急行「能登路4号」を併結し、金沢-大阪間は新潟発の急行「越後」に併結されていました。何故か福井で13分も停車し、大阪に18時08分着です。
急行「ゆのくに1号」12両編成(金サワ)
大阪←①Tc M'McTcTsTsTbM'McTcM'Mc→金沢
1〜4号車が普通車の指定席で5・6号車がグリーン車の指定席、車両は471/473/475系。
急行「ゆのくに2号」キハ58系4両編成
大阪←①DcDcDcDcDsDc+DcDsDcDc+DcDc⑫→金沢
1〜6号車は新潟発大阪行の「越後」、7〜10号車が輪島発大阪行の「ゆのくに2号」で11・12号車は珠洲発金沢行の「能登路4号」、グリーン車2両と6号車が指定席、所属は1〜10号車が長ナノで他が大ミハ。

1969年の北陸に出てくる京福電気鉄道福井鉄道部は、2000年12月17日のブレーキロッド破損による正面衝突事故と、2001年6月24日の見習い運転手の信号見落しによる正面衝突事故のため2001年10月19日に廃止され、2003年からえちぜん鉄道として営業再開されています。儲からない鉄道を存続させたのは、鉄道が無くなった2001年の積雪時に、幹線道路が大渋滞して通勤通学が困難になった事が一因とも言われています。

残念ながらこの時代の車両は記憶が薄いためか思い入れも少なく、非冷房化など製品にかなり手を入れる必要もあってN・Bトレとも作る予定はありません。

 

以上