ひめたか鉄道2018

会社を定年退職して嘱託になり時間ができたことと、会社行事で見たアニメの銀河鉄道に出てくる車両に触発されて、これまで時間に追われてほとんど出来なかった鉄道模型を、ちょっと真面目かつ気楽に再開することにしました。

姫新線と姫路モノレールの思い出 1974年6月30日の記録


1973年4月からチャリで通い始めた高校ですが、2年生から冬季に限って姫新線を使った列車通学に変更しました。
当時の姫新線は急行が3往復、普通列車も最低1時間に1本は走っているローカル線だったので、田舎の高校生にとって特に不便は感じませんでした。
f:id:himetaka2018:20211117141217j:image播但線(長谷ー生野間にある渕の大カーブ)や北条線(法華口付近)と同様に、太市ー本竜野間のトンネルや東觜崎ー播磨新宮間の揖保川橋脚に自転車で蒸気機関車の撮影に行っていましたが、この時期の写真は列車撮影分をどっかに集めて保管したらしく、ネガごと紛失して写真は全く残っていません。
ところが先日出てきた1971年から1984年の中学高校時代のネガフイルムをプリントした中に、1974年6月30日に手柄山公園で行われた学校行事の帰りに姫路ー播磨高岡間で気動車列車を撮影したものが出てきました。
f:id:himetaka2018:20211111191804j:image手柄山公園から実家に帰る時に山陽本線の姫路ー英賀保間と姫新線の姫路ー播磨高岡間をこの順に横切りますが、先ず姫新線まで行って後期型(二段窓)キハ20x2連の播磨新宮発姫路行の860Dを撮っています。f:id:himetaka2018:20211111205809j:imageこの列車の撮影は16:34頃で次の843Dが来るまで30分近く間があるため、一旦山陽本線まで戻ってEF65 0番台最終型の124号機が牽引する上り貨物を撮っています。
現在では高架になってこの風景は全く変わってしまいました。
f:id:himetaka2018:20210728115535j:image姫路駅を16:58に出発する新見行最終の下り843Dで、前3両が新見行・中3両が津山行・最後尾は播磨新宮折返しの合計7両という今では考えられない長大編成でした。
またこの列車は津山でなんと1時間3分も停車し、そのためかはたまた津山で列車番号が845Dに変わるせいか分かりませんが、行先サボは播磨新宮回転車を除いて全て「津山行」になっていました。
この撮影場所も現在は高架になっていますが、写真左奥にはこの年の4月に運転休止になった姫路モノレールのレールが写っています。
f:id:himetaka2018:20211119112708j:image姫路モノレールのHPから転載した現役当時の写真です。
写真左側が国鉄姫路駅(見えているホームは姫新線用西1番線で、その上が豆腐町の踏切)で、その北側にモノレールの姫路駅がありました。
f:id:himetaka2018:20211119112933j:imageプラットホームには囲いもなく、高所恐怖症の私はモノレールが入線して来るまではかなり怖かった思い出があります。
写真左手に見えるのが当時の山陽百貨店(現在の山陽百貨店本館、このモノレール姫路駅辺りは同百貨店の西館になっている)で、二階には当時から山陽電気鉄道の電鉄姫路駅があります。
f:id:himetaka2018:20211119113622j:image姫路駅を出て60‰を駆け上がり高架上の山陽電気鉄道を更にオーバークロスしているところです。
右奥に姫路駅が見えていますか、現在遺構となっている「橋脚のあるビル」はまだ建っていません。
f:id:himetaka2018:20211119112212j:image下から見るとこんなかんじで、一番下が国鉄山陽本線(手前)と姫新線でその上が山陽電気鉄道です。
f:id:himetaka2018:20211119112631j:imageこのあと高尾アパートに設置された大将軍駅に入りますが、JR姫路駅からたった500mしか離れていないこの駅はモノレールを待っている間に歩いて帰れるためか利用者がなく、開業から僅か2年で廃止され通過扱いになっていました。
f:id:himetaka2018:20211119114029j:imageこのあと産業道路を跨いでR80mの最小カーブで方向を変えて南下し、私の撮った気動車の写真の位置に出ます。
上は山陽電気鉄道を越えている場所の写真ですが、この右側に大将軍駅があり、そこから左へ直角に曲がって写っているモノレールのすぐ上・後方に見えるトラス橋梁(重なって見えているトラスの手前は産業道路の通る大将軍橋)で国鉄をオーバークロスします。
f:id:himetaka2018:20211119111519j:image2008年のJR姫路駅の高架によってJRをオーバークロスしていた大将軍橋がなくなり、その橋を通っていた産業道路船場川線に名前を変え、2016年には大将軍駅があった高尾アパートも取り壊されて駐車場になってしまい、ビルと一体化した橋脚以外は何もなくなってしまいました。
さて気動車列車に話を戻しましょう。
f:id:himetaka2018:20210804172628j:image先頭のキユニ18は、1954-1955年に製造された片運トイレなしの量産液体式キハ16(当初はキハ45500、1957年4月の称号規程改正でキハ16に改称)を、1966年に改造したキハユニ18を再改造したものです。
キユニ18 4-6の3両が1971年度の改造後から廃車になるまでの10年間ずっと岡山区に在籍して、姫新線では1日4往復の全線直通列車に連結されて姫路ー新見間を走っていました。
f:id:himetaka2018:20211112102239j:imageまたキハユニ15も同じ運用に入っており、こちらは1952年度に製造された試作電気式のキハ44000が元で、パワー不足が祟って1957年4月の称号規程改正で初代キハ09になるも同年度中に液体式合造車に改造されてしまいました。
そもそもこのキハ44000は、総括制御ができる気動車を鉄道開業60周年までに実用化すると国鉄上層部が言ったものの、液体式気動車の開発が遅れたため急遽電気式ででっち上げて間に合わせたという大人の事情があり、元々長く使うつもりはなかったのかもしれません。
こちらも3両(1952年8月製でシル・ヘッダー付の1と、1953年3月製でバス窓の11・14)が運用されており、1と11は1962年度に鳥取から移ってきて1980年と1977年に岡山で廃車、14は1973年に加古川から転入するも1975年に浜田へ転出して1979年に廃車されています。
f:id:himetaka2018:20211112113902j:imageこれら3両とも前面が貫通型に改造されており、湘南顔だったキハ44000の面影を強く残していた加古川のキハユニと同形式だとは思ってもいませんでした。
f:id:himetaka2018:20211119122403j:image前から4両目にはキハ35がみえますが、当時のローカル線のドアは「手で開けて自動で閉まる」半自動方式で当然開閉スイッチなど無かったため、2枚扉で重たかった両開き扉タイプのキハ35やキハ23は敬遠していました。
なお手で扉を開けるため、停車しても乗降客がいないと何の変化もなく発車していきます。f:id:himetaka2018:20211117171547j:imageさてこの新見行列車と播磨高岡駅の次の余部(「よべ」と読みます)駅で交換してきた上月発姫路行862Dの後期型キハ20x2連です。
f:id:himetaka2018:20211117171553j:image後追いでも撮っており、写真中ほどの遥か後方に新幹線の架線が見えているので、撮影の合間に少しずつ播磨高岡駅方面に移動したようです。
f:id:himetaka2018:20210731020757j:imageさらに新見行普通列車余部駅の隣の太市駅で交換した、姫路に17:32着の大阪行上り急行「伯耆2号・みまさか3号」です。
中国勝山発の「みまさか3号」が5両編成、米子発の「伯耆2号」が6両編成で、併結する津山から姫路まで11両編成という特急が走らないローカル線とは思えない長大編成となって姫新線を疾走していました。
また両方の列車にグリーン車を連結しているため、1編成にキロが2両連結されている豪華な列車でもありました(前から3両目と後ろから2両目がグリーン車)。
f:id:himetaka2018:20210731021305j:image後追いの写真で見ると後ろから2両目の窓が異なっていることが確認できます。
姫新線内ではこの列車が最長編成でしたが、9両編成の「みまさか(下り3号・上り1号)」と4両(播但線内は8両、姫路で併解結)編成の「但馬(下り4号・上り1号)」は併結区間の大阪ー姫路間を13両編成で走っており、電車と違って運転台が幾重にも連なって出発して行く姿は迫力がありました。
中学時代にチャリで見に行った渕の大カーブを走行するC57牽引の客車列車、同じくチャリで見に行った国道372号の法華口駅横踏切を爆進するC12牽引の貨物列車、高校の下校時に播磨高岡のホームで飛び降りていた姫新線客車列車、大学の帰りに急行料金を払ってボックス席を独占しタバコを吸いながら追い抜いていく満員電車を見て優越感に浸っていた急行「みまさか5号」などジジィになると若かりし頃が懐かしくなるのは本当みたいで、頑張って少しでも多く再現したいと思っています。

 

以上