本記事は3年半前に投稿した、初めて弟と二人だけで行った蒸気機関車の撮影旅行で人生初の新幹線と夜行列車に乗った1971年8月の北海道旅行記を、新たに見つかった資料と写真に基づいて大幅に修正したもので、これまでに更新した1968年8月の九州(熊本城・阿蘇山)と1970年8月の北陸(東尋坊・永平寺)に続くものです。
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関西から北海道に行くルートは裏縦貫(北陸〜羽越〜奥羽)と東京経由(新幹線〜東北・常磐)があり、裏縦貫の方が距離的には近いのですが、新幹線効果は大きく時間的には東京経由の方が早いうえ午前中に函館に到着出来るというメリットもあるため東京経由としました。
ただこの時期の裏縦貫は新津ー青森間が非電化で、風光明媚な羽越本線を走るC57や急勾配急カーブの奥羽本線で最後の活躍をしていたC61やD51等の大型蒸気機関車を見ることが出来たはずなので、今から思うと勿体ないことをしたものです。
また元々の計画では函館からC62牽引(長万部から重連)の急行「ニセコ3号」に乗車し、札幌着20:26着で同21:20発のC55牽引(旭川から、多客時は重連)の急行「利尻」に乗り継いで稚内まで行くつもりでしたが、心配性の父親に21時を過ぎてからの移動は危険だと指摘されて断念、計画を大幅に縮小して五稜郭機関区にC62を見に行くことに留めました。
ただ、もし親の反対を押し切って札幌まで行っていたとしてもこの年の「利尻」はもうC55牽引ではなかった可能性があります。
蒸気機関車ファンとしてはやっぱりC62は特別な存在で、なんとしても定期運用がある間に見ておきたいと思って決めた旅行でした(写真はこの旅行のために購入した鉄道ジャーナル別冊の撮影ガイド)。
実際には「ニセコ」運用離脱後も1972年10月1日まで長万部〜小樽間の普通列車1往復にD51と共通で定期運用されていました。
なお当時の関西では地理的に近い「伯備線のD51三重連」が大フィーバーし、お立ち台である「ぬのはら」の名前はタバコ屋のお婆ちゃんでも知っているとまで言われていました。
【残っている記憶】
①当時新幹線は東京-新大阪間のみだったので、姫路から快速電車で新大阪に行った。
②途中の西明石駅で工事中の新幹線西明石駅の防護壁にいた猫に指鉄砲で「べいん!」とか言って遊んだ(窓は開いていたと思う)。
③上野から臨時の夜行急行に乗ったら、当時としては画期的な全車冷房付きの12系客車だったので驚いた。
・帰りの列車は定期急行の指定券を買っていたが、慌てて時刻表を調べて12系客車使用列車を探して乗車変更した。
・時刻表には12系客車使用とは記載されていなかったが、寝台やグリーン車が連結されていない全車指定席列車を狙って取った。
・牽引機がEF57だったので、乗った列車は東北本線経由の急行「八甲田」と思っていた。
④五稜郭駅から五稜郭機関区までは徒歩で往復、暑くて途中の駄菓子屋でジュースを買った記憶がある。
・機関区事務所で住所と名前を記載してヘルメットを借りたが、私の頭周りが小さいのでメットが固定されず撮影時に邪魔になった。
・初めて見るC62やD52はただただデッカイという印象だった。
・五稜郭の駅員さんに姫路から来たと言ったら、「あぁ、シメズね。」と返されて話が通じているのか心配になった。
⑤函館駅に戻ってホームを挟んで並んでいるキハ82系「北斗」とC62牽引「ニセコ」を撮影、「ニセコ」の出発を見送った時に、発車時に鳴らされた汽笛の音の大きさに驚いたことを覚えている。
⑥帰りの青函連絡船を乗換口で待っている時に、函館駅2番ホームに到着した「ニセコ1号」を見た。
・牽引機はC62 16号機だった。
⑦帰りも目論見通り12系客車の臨時急行に乗った筈であるが、行きほど感動しなかったのか全く記憶に残っていない。
【検証】
この旅行で実際に使っていた時刻表が出てきたため、これを使って記憶を検証しました。
ラッキーな事に姫路から帰りの上野着までの乗車列車に印を付けていたため、列車の特定は容易でした。
旅の始まりは播磨新宮発姫路行の客車列車(1828レ)で、姫新線の無煙化は津山機関区のC58が1971年3月24日、姫路ー播磨新宮・上月間の区間列車を牽引していた姫路第一機関区のC11は同年1月中だったので真新しいDE10が牽引していたはずです。
姫新線1828レ 播磨高岡09:34→姫路09:41
写真は1971年2月10日の姫路第一機関区の様子で、姫新線用のDE10や播但線用のC11が見えます。
①の記憶通り姫路から新幹線に乗り継ぐ新大阪までは播州赤穂発草津行の762M(赤枠)普通(明石〜京都間快速)電車に乗車しました。
京阪神快速762M 姫路10:04→新大阪11:45
余談ですが写真の時刻表白枠の列車は電気機関車(たぶん広島機関区のEF61)が牽引する客車列車で、山陽本線姫路電化後に開設された東加古川駅や魚住駅など電車用ホーム(地上高が高い)の駅は客車では乗り降り出来ないため通過していました。
京阪神快速電車は岡山直通車を除き1968年10月に113系化されており、編成の構成はグリーン車付きが中間部にグリーン車とサハ代用のクハ111 をつないだ8両編成で、グリーン車無しはそれから単純にサロを抜いた7両編成でした。
草津←TcMM'TcTsMM'Tc1→播州赤穂
当時は普通車はおろかグリーン車でさえ非冷房が当たり前で、グリーン車の冷房化は1972年から、普通車は1974年4月〜7月に登場した湖西線用700番台と1977年10月から投入開始された0'番台からになります。
ただ同じ113系でも1970年10月から京都ー西明石間で運転開始した新快速用車両は、競合する阪急や京阪に対抗するために1971年夏には全ての新快速用車両が冷房化されています。
これらの車両は、1970年の万博輸送用に大船区(東フナ)から大挙して網干区(大ホシ)に移動したスカ色の113系0番台初期車で、1972年3月15日のダイヤ改正で新快速を153系に交代した後は鳳区(天オト)に移って阪和線の新快速になりました。
気になるのは②の記憶にある新幹線西明石駅工事用壁にいる猫を見たことで、距離的に在来線西明石駅の最も北にある1番線に止まったと思っていたのですが、このホームは外側線(列車線)で通勤時間帯を除いて優等・貨物列車専用になるため、ホームを挟んだ電車線である3番線に止まった電車から見たことになります。
実際に西明石駅へ見に行くと3番線の姫路寄りのホームであれば新幹線駅はかなり近いことが確認され、ここなら新幹線駅の防護壁に猫が居てもわかると思いました。
なおこの電車は西明石に5分間停車していますので、猫と戯れる時間は充分にあったことになります。
新大阪からは見るのも乗るのも初めての新幹線(0系0番台)「ひかり38号」で東京に行きました。
「ひかり号」は1-99号が定期列車で300番台号が不定期列車、在来線と違って下り新大阪行が奇数(1号・3号…)で上り東京行は偶数(2号・4号…)と区別されていました(在来線は1978年10月2日のダイヤ改正で変更)。
特急「ひかり38号」新大阪12:05→東京15:15
初めて乗った新幹線でしたが、転換クロスシートだったことと新丹那トンネルを抜けた後の熱海の景色ぐらいしか記憶に残っていません…この頃から新幹線には興味なかったんですねぇ。
③の記憶とは異なり上野から常磐線経由青森行の急行「十和田53号」に乗車しました。
この列車は7/31→8/24運転の臨時急行で、当時は8月頭からお盆までが繁忙期で8/20を過ぎると旅行客は激減しており、私達が乗車した時もずっとボックス席に2人だけでした。
急行「十和田53号」上野16:18→青森04:29
実家の整理でこの列車の切符が見つかり、乗車したのが1971年8月23日、この旅行が8/23〜25であることが判明しました。
東北本線も常磐線も途中で直流1500Vから交流2万Vに切り替わりますが、常磐線は走行中の車上切替方式なのに対し東北本線は黒磯駅構内での地上切替方式のため、常磐線の牽引機は上野ー平(現いわき)間が交直流電気機関車で平ー青森間が交流電気機関車、東北本線の牽引機は上野ー黒磯間が直流電気機関車で黒磯ー青森間が交流機関車です。
乗車した急行「十和田53号」は常磐線経由なので牽引機は交直流電気機関車EF80です。
なぜ直流電気機関車のEF57と勘違いしたのかについて、ひょっとして上野駅の構造が複雑で地上ホームに行くのに時間がかかって牽引機を見に行くヒマがなくなってしまい、その時に到着した列車の牽引機がEF57だったことで記憶が混じったのではないかと推察して調べたところ、16:04着の急行「まつしま52号」が唯一該当しましたが到着番線が6番線となっており、果たして地上ホームの14番線から2階ホームの牽引機が見えたのかは疑問です。
次に考えたのは乗車列車の牽引機を見に行った時に他の列車の先頭にいたEF57を見たのではないかということで、東北本線の出発列車を調べたところ15:54発の福島行125レがありました。
この列車は54分間も停まっていること、乗車した「十和田53号」の入線時間に出発すること、同じ地上ホームから発車すること、これ以外に客車列車が止まっていないことなどからこの普通列車の牽引機だった初見のEF57に感動して勘違いした可能性があります。
また上野駅の構造が複雑なため弁当を探すのも大変だったのですが、選んで買った100円の駅弁がとっても不味かったことはハッキリ覚えています。
③の記憶にある12系客車ですが、大阪万博・波動輸送用と旧型客車の置き換えを目的に製造された冷房と自動扉を備えた新世代の客車で、冷暖房用電源を積んだ事により牽引機を選ばなくなったことが大きな特徴です(多客期でも運用に余裕のある貨物機で運用できる)。
1969年に試作車28両が製造されて宮原区(大ミハ)に配属、1970年には300両が追加され、前期型478両が1971年5月末までに出場しています。初期の臨時列車ということもあってネットでは「十和田53号」の編成表を探し当てることが出来ませんでしたが、鉄道ピクトリアル757(2005年2月)号によると初期の頃はスハフ・オハx4・オハフの6両編成が基本とされており、編成が短いと感じた記憶はないので基本編成2本の12両で構成されていたのではないかと思われます。
【青函連絡船】
青森桟橋は進行方向前に連絡口があり、連絡船内でいい席を取るために乗客がその連絡口めがけて走る青函ダッシュが名物でした。
前出の切符には4号車とあるので上野方が1号車の東北・常磐線ではかなり後ろだったことになりますが、時期的に繁忙期を過ぎておりここまで乗ってきた急行「十和田53号」でも4人席を2人で占有出来たのでそれほど乗客がいなかったため、この時はそんなに走らなかったのではないかと思われます。
青函連絡船で運航されていたのは津軽丸型客載車両渡船7隻(津軽丸・八甲田丸・松前丸・大雪丸・摩周丸・羊蹄丸・十和田丸)で、どれに乗ったかは全くわかりません。
大学生時代の1979年〜1982年に青函連絡船を使って北海道へ行っており、記憶が上書きされているおそれがあるため何とも言えませんが、寝転んでいけるので人気がある座席ではなく空いていた椅子席に座ったと思います。
青函連絡船33便 青森05:05→函館08:55
続きます。