ひめたか鉄道2018

会社を定年退職して嘱託になり時間ができたことと、会社行事で見たアニメの銀河鉄道に出てくる車両に触発されて、これまで時間に追われてほとんど出来なかった鉄道模型を、ちょっと真面目かつ気楽に再開することにしました。

岡山の交通博に展示されていたD51 838とC11 80〜古い写真から

書きかけの記事が消えてしまうというこのブログの不具合頻発によってただでさえ長続きしない性格に拍車がかかり、なかなか更新が進まない状態が続いていますが…
f:id:himetaka2018:20250209183927j:image実家を売却するときに引き上げてきた学生時代に撮影した100本程のネガフィルムを、少しずつ再プリントしてその時代を懐古しています(大した内容ではないのでデジタル化するつもりはありません)。
f:id:himetaka2018:20250209183942j:imagef:id:himetaka2018:20250209184000j:imageその中で中学生の時に唐招提寺を訪ねたネガフィルムから、現在も岡山県新見市津山市でそれぞれ静態保存されているC11 80とD51 838が、同じ場所で同時に展示されていたと思われる写真が出てきました。
f:id:himetaka2018:20250131022227j:imageD51 838は1971年4月21日に本機として全国植樹祭お召し列車を牽引(デフに鳳凰・前端梁に菊紋を取付)、1973年4月1日に新見発岡山行の伯備線SLさよなら列車を牽引後浜田機関区に転出するも半年で廃車、井倉公園を経て井倉洞駐車場で静態保存されています。
f:id:himetaka2018:20250131015040j:imageまたC11 80は津山機関区時代の1971年3月24日に津山発岡山行の津山線SLさよなら列車(ヘッドマーク付、デフに鶴マーク)を牽引、その後第一種休車になったものの1973年4月11日に会津若松運転区に転出した後、1974年11月10日の日中線さよならSL号牽引を最後に廃車され 津山市立南小学校にて保存、2017年8月になぜか津山まなびの鉄道館ではなく津山駅北口広場に移設されました。
f:id:himetaka2018:20250201133103j:imageこれらの経緯やネットの情報だけではこの2両がいつどこで一緒に展示されていたのかわかりませんでしたが、書籍などを散々探した結果「新幹線岡山開業記念岡山交通博」に出展されていたことを発見しました。
f:id:himetaka2018:20250201133122j:image(2点とも株式会社乃村工藝社様の博覧会資料COLLECTIONから転載)
この交通博は、1972年3月15日の新幹線岡山開業を記念して3月25日から5月7日までの期間、岡山市いずみ町県営グラウンドと岡山駅南広場(現東口広場)で開催されていたようです。
写真に写っている53年前の私が着用している学生服の襟章が「Ⅱ」になっているので、中学2年から3年になる1972年の春休みに行ったことがわかります。
f:id:himetaka2018:20250209184020j:imageどっちも運転台が見学できるように梯子が設置されていました。
f:id:himetaka2018:20250201140023j:image2両ともこの交通博終了後に現役復帰してそれぞれさよなら列車を牽引しています。
津山線無煙化で第一種休車になっていたC11 80を使ったのはわかりますが、 D51 838の方はお召列車を牽引したのは1971年4月21日で伯備線SLさよなら列車が1973年4月1日と第一線で活躍中のカマ(蒸気機関車)をわざわざ第一種休車にして展示したことになります。
車両の検修時期が休車期間分延長されるので、伯備線無煙化まで延命するための措置かとも思ったのですが、伯備線無煙化後に浜田に行ったのでこの理由でもなかったようです。
f:id:himetaka2018:20250202184853j:image有名なD51三重連が1972年3月12日で終了しているので、DD54の配備もあって運用に余裕が出たのかもしれません。
f:id:himetaka2018:20250209184331j:imageネガフィルムではこの後に続いて唐招提寺を訪ねていますが、場所的にも距離的にも1日では回れないので別日に行ったものと考えられます。
f:id:himetaka2018:20250131150320j:image以前に使用したカメラをオリンパスペンEEと紹介しましたが、フィルムカウンターが自動復元式でホットシューが付いていた記憶があるので、1968年5月発売のオリンパスペンEE-2が正しく九州旅行の直前に買ったと思われます。

以上

 

 

 

1971年8月の北海道旅行【後編】

1971年8月の北海道旅行の続きです。

himetaka2018.hatenablog.com

【残っている記憶】
③上野から臨時の夜行急行に乗ったら、当時としては画期的な全車冷房付きの12系客車だったので驚いた。
・帰りの列車は定期急行の指定券を買っていたが、慌てて時刻表を調べて12系客車使用列車を探して乗車変更した。
・時刻表には12系客車使用とは記載されていなかったが、寝台やグリーン車が連結されていない全車指定席列車を狙って取った。
・牽引機がEF57だったので、乗った列車は東北本線経由の急行「八甲田」と思っていた。
五稜郭駅から五稜郭機関区までは徒歩で往復、暑くて途中の駄菓子屋でジュースを買った記憶がある。
・機関区事務所で住所と名前を記載してヘルメットを借りたが、私の頭周りが小さいのでメットが固定されず撮影時に邪魔になった。
・初めて見るC62やD52はただただデッカイという印象だった。
五稜郭の駅員さんに姫路から来たと言ったら、「あぁ、シメズね。」と返されて話が通じているのか心配になった。
函館駅に戻ってホームを挟んで並んでいるキハ82系「北斗」とC62牽引「ニセコ」を撮影、「ニセコ」の出発を見送った時に、発車時に鳴らされた汽笛の音の大きさに驚いたことを覚えている。
⑥帰りの青函連絡船を乗換口で待っている時に、函館駅4番ホームに到着した「ニセコ1号」を見た。
・牽引機はC62 16号機だった。
⑦帰りも目論見通り12系客車の臨時急行に乗った筈であるが、行きほど感動しなかったのか全く記憶に残っていない。
【検証】
前編で函館駅まで到達しました。
f:id:himetaka2018:20250119161128j:image乗船した青函連絡船33便は函館に8時55分着ですが、五稜郭に行く普通列車は10時10分までありません。
おそらくここで朝食を取ったと思われますが、中学生が喫茶店函館朝市に行ったとは考えられず、売店で菓子パンなどを買ってホームのベンチか入線している列車内で食ったと推察されます(当時は始発駅での滞留時間が長かった)。
f:id:himetaka2018:20250113123817j:imageまた1978年10月末までは五稜郭駅前まで函館市電が走っていたのでこれに乗ったもの可能性もありますが、④の記憶から五稜郭駅の改札口を出る時に駅員さんに聞かれたと思われるので国鉄を利用したはずです。
f:id:himetaka2018:20250118154148j:image当時の五稜郭駅は北海道特有の入口が狭い構造でしたが 1977年10月に改修されて広くなりました。
f:id:himetaka2018:20250119112354j:imageその後2011年8月5日に外装がリニューアルされて現在の駅舎になっています。
f:id:himetaka2018:20250119134222j:image 五稜郭駅から五稜郭機関区までは線路脇の細い道を歩いた記憶があるのですが、地図上に記載はなく少し離れた国道5号線を歩いたのかもしれません。
f:id:himetaka2018:20250119123003j:image機関区事務所で住所と名前を記載するとヘルメットを貸してくれましたが、ヘルメットを固定する紐の長さ調整方法が分からずにいい加減な固定だったので、撮影時にグラグラしてとっても邪魔になりました。
f:id:himetaka2018:20250119185250j:image④の記憶にある五稜郭機関区で撮影したC62 3[築]です。
f:id:himetaka2018:20250120175840j:image現役時代のC62 3号機は煙室扉下のエプロンと、炭水車に増炭覆い板を付けていました。
f:id:himetaka2018:20250119185449j:image見つかったフィルムから再プリントしたもので発色は良くなりましたが、フィルム自体が50年間でかなり劣化しています。
f:id:himetaka2018:20250120173726j:image後方から見たC62 3、転車台は未だ違う方向を向いています。
f:id:himetaka2018:20250119190610j:imageこちらはD52 202[五]で、キャブは密閉式に改造されていません。
f:id:himetaka2018:20250119190743j:imageDC改造のビフォーアフター、これはD52 138号機です。
f:id:himetaka2018:20250119190924j:imageこの頃は未だ転車台も普通に撮影出来ました。
ここの扇形車庫は1969年6月に2線分を残して焼失してしまいました。
f:id:himetaka2018:20250119191717j:image江差線用のC58 126号機が出区して行きました。
f:id:himetaka2018:20250119192216j:image遠方の江差線を走るC58牽引の貨物列車で、撮っている時は認識していても後から写真をみると何を撮ったのかわかりませんでした。
f:id:himetaka2018:20250119192535j:image分かる程度に引き伸ばしてみました。
f:id:himetaka2018:20250119192642j:imageDE10が見えますが、右運転台で有名だった五稜郭操車場の入換用9600を1968年10月に置き換えた奴です。
この写真をよく見るとC62はドレイン切って動き出しているのでそのまま転車台に乗ったと思われます。
f:id:himetaka2018:20250120163942j:imageところが次の写真はC58の給水シーンになっていて、C62が転車台に乗っている写真はありませんでした。
f:id:himetaka2018:20250120164945j:image今でこそ転車台上に機関車を乗せてグルングルン回します(京都鉄道博物館では3回転します)が、現役時代は最小角度でしか回さないため角度的に撮れなかったのではないかと思います。
f:id:himetaka2018:20250120165126j:image転車台からバックでアッシュピットまで下がっていきましたが、灰落としをするわけではありません。
f:id:himetaka2018:20250120165133j:imageこの線路は出区用なのか、先に転車したD52も函館方向に止まっています。
C62の後方にガントリークレーンが見えます。
f:id:himetaka2018:20250120021230j:image函館駅で急行「ニセコ3号」の発車を見るために、五稜郭駅13:43発の室蘭発函館行の普通列車(240レ)に乗って函館に戻りました。
五稜郭機関区から駅に行く途中でジュースを買うために駄菓子屋に寄ったら、店のおばちゃんに「内地の人ね」「なんでわかります?」「北海道の人間は夏に長袖の服は着ないから」と言われたことを今でも覚えています。
初めての北海道旅行だったので、「北海道は寒い」という固定観念から長袖シャツを着ていました。
f:id:himetaka2018:20250120024030j:image ⑤の函館駅4番線ホームで出発を待つC62 3号機牽引の函館本線経由札幌行き急行「ニセコ3号」です。
f:id:himetaka2018:20250120024034j:image 反対の3番線ホームに並んでいるキハ82系室蘭本線経由札幌行き特急「北斗2号」は14時20分発です。
f:id:himetaka2018:20250120021226j:image急行「ニセコ3号」はその5分後の14時25分に発車します。
f:id:himetaka2018:20250120024447j:image機関車のすぐ横にいたので、発車時の汽笛音がもの凄く大きくて本当に飛び上がるかと思いました。
f:id:himetaka2018:20250120170430j:image身を乗り出して前方の信号を確認する機関助士と、機関車直後に連結されているスハフ44のデッキに立つテツ(と思われる人)が写っています。
函館発着の優等車両は青函連絡船乗換口に近い函館方に連結されています。
f:id:himetaka2018:20250120140727j:image絶大な人気のあったC62 2号機は、調子が良くないので補機で使いたいことと重連の前補で見たいファンへのサービス的な国鉄運用側の配慮があって、最後は山線区間で前補機として長万部折り返しで先頭に立ち続けたと言われています。
f:id:himetaka2018:20250120141520j:imageこのC62 2号機の「つばめマーク」は1951年に鷹取工場へ入場した際に取り付けられ、また同機につけられた「スワローエンゼル」の愛称は、鉄道ジャーナル第5号(1968年2月号)に掲載された「スワローエンゼル物語」という急行「ていね」牽引のC62重連を紹介する記事で、執筆された当時高校生の松本謙一様が名付けられたものです。
f:id:himetaka2018:20250120025455j:image⑥について、乗換口はホームの上を跨いでいる部分にある(写真の白丸)ので、4番線ホームに到着する急行「ニセコ1号」とその牽引機を見ることは物理的に可能です。
f:id:himetaka2018:20250120031749j:image帰りは函館を17時に出る青函連絡船4便(赤枠)に乗っており、函館駅16時12分着の急行「ニセコ1号」(白枠)を見ることは時刻的にも可能ですが、乗換口に並んでいる時に到着したという事は、少なくとも1時間前から並んでいたことになります。
たぶんですが、接続する急行「ニセコ1号」や特急「北斗3号」の乗換客が来る前に並んでおこうとしたのかもしれません。
 青函連絡船04便 函館17:00→青森20:50
f:id:himetaka2018:20250120130212j:image③の記憶にある通り、事前に予約していた青森21:35発の急行「十和田5号」を21:20発の急行「十和田54号」に乗車変更しました。
f:id:himetaka2018:20250120130828j:image12系客車を狙って全車指定席で座席車だけで構成されている列車を選びました。
f:id:himetaka2018:20250120132114j:image後年になって知ったのですが、東北本線常磐線以外の臨時急行は日本中から予備の旧型客車を集めて編成された全車指定席の遜色急行だったようです。
 急行「十和田54号」青森21:20→上野09:43
⑦については、行きの上野駅で買って失敗だった弁当に懲りて青森駅では吟味しまくった末にちょっと価格が高いけど150円の「鳥そぼろ弁当」を、駅のホームに大八車で商品を並べていた店(?)で買ったと思っており、とても美味しかった記憶が残っていますが、これ以降のことは何一つ覚えていませんし、写真も残っていません。
初めての中学生兄弟だけの旅行で相当気が張っていた筈なので、帰りは気が緩んだということだと思います。
記録も上野到着までしか残っていないので、以降の工程は裏付けのない予想です。
 特急「ひかり27号」東京10:20→新大阪13:30
 京阪神快速777M 新大阪13:42→姫路15:17
  米原発姫路行 グリーン車
 姫新線823レ 姫路15:20→播磨高岡15:26
  姫路発津山行
これで検証は終了です。
【撮影機材】
この時の旅行で使用した撮影機材は、YashicaFLEX(型式不明)とオリンパスペンEEです。
f:id:himetaka2018:20210523155259j:imageヤシカは父親が使っていた1953-1955年頃製の6x6判二眼レフで、シャッター速度は1/200までありましたがファインダーの像が逆転しているので動体撮影は難しかったです。
f:id:himetaka2018:20210523160654j:imageオリンパスペンはベストセラーのハーフカメラで1968年の九州旅行でも使っていますが、シャッター速度が1/60固定なのでブレブレ写真の乱造になりました。
f:id:himetaka2018:20210523155157j:image この北海道旅行のために買ってもらったと思っていた旧ソビエトKMZ製のMeproZenit E(MEPRO-KOMINER 55mmF2.8付)ですが、C62を写したフィルムが見つからなかったため買ってもらった時期を高校入学時と勘違いしていたみたいです。
このメプロゼニットはオリンパスペンと同価格という超破格値で、外光式露出計と1/500までのシャッター速度を備えたM42スクリューマウントのレンズ交換式一眼レフでしたが、さすが旧ソビエト製で1年半使ったらフィルムが巻き取れなくなりました。
f:id:himetaka2018:20210528104944j:image後継機は同じM42マウントで開放測光のPENTAX SP-Fにしました。
ひょっとしてメプロゼニット時代にテレプラスを買っていたのでマウントを合わせたのかもと思ったのですが、外光式露出計でテレプラスを使うと露出値が合わなくなるという問題が起こります。
f:id:himetaka2018:20250120145449j:imageこれも多分ですが、メプロゼニットを使った経験からこのSP-F(ペンタックス)とOM-1(オリンパス)はキャノンやニコンに比べてボディが一回り小さくて取り回しが良かったことが選定理由で、またより小さいオリンパスを選ばなかったのは当時カメラメーカーとして認知が薄かったからだと思われます。
f:id:himetaka2018:20210528110906j:imageこのSP-Fはその後21年間使い続けて、1995年8月6日に「C62ニセコ号」をけん引するC62 3号機を雨の中で撮影したのが最後となりました(蘭島-塩谷間)。
さてこの北海道旅行時に五稜郭機関区および函館駅で撮影した分を含む50年前のフィルム(35mmx19本、6x6のブローニーx3本)が出てきたので当該部分をプリントし直しました。
35mmフィルム(長方形の写真)はオリンパスペンEEで、ブローニーフィルム(正方形の写真)はヤシカフレックス(二眼レフ)で撮影したものです。
プリントするのにカメラのキタムラに持って行ったらブローニーは出来ませんと言われ、ビッグカメラでは納期1週間ならブローニーもいけますとは言われましたが「プリントはL版で良いですか?上下切れますけど」って店員さんに言われて出すのを躊躇しました(写真は片手間なんですね)。
どっちの店もHPにはブローニーも手焼きも可能って書いてあるんですけど……高くてもいいから写真のことをよく知っている写真屋さんを探さんといけません。

続いて1971年2月の姫路第一機関区です。

1971年8月の北海道旅行【前編】

f:id:himetaka2018:20210512134321j:image本記事は3年半前に投稿した、初めて弟と二人だけで行った蒸気機関車の撮影旅行で人生初の新幹線と夜行列車に乗った1971年8月の北海道旅行記を、新たに見つかった資料と写真に基づいて大幅に修正したもので、これまでに更新した1968年8月の九州(熊本城・阿蘇山)と1970年8月の北陸(東尋坊永平寺)に続くものです。
himetaka2018.hatenablog.com

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f:id:himetaka2018:20250101020541j:image関西から北海道に行くルートは裏縦貫(北陸〜羽越〜奥羽)と東京経由(新幹線〜東北・常磐)があり、裏縦貫の方が距離的には近いのですが、新幹線効果は大きく時間的には東京経由の方が早いうえ午前中に函館に到着出来るというメリットもあるため東京経由としました。
f:id:himetaka2018:20250101020525p:imageただこの時期の裏縦貫は新津ー青森間が非電化で、風光明媚な羽越本線を走るC57や急勾配急カーブの奥羽本線で最後の活躍をしていたC61やD51等の大型蒸気機関車を見ることが出来たはずなので、今から思うと勿体ないことをしたものです。
f:id:himetaka2018:20250104221946j:imageまた元々の計画では函館からC62牽引(長万部から重連)の急行「ニセコ3号」に乗車し、札幌着20:26着で同21:20発のC55牽引(旭川から、多客時は重連)の急行「利尻」に乗り継いで稚内まで行くつもりでしたが、心配性の父親に21時を過ぎてからの移動は危険だと指摘されて断念、計画を大幅に縮小して五稜郭機関区にC62を見に行くことに留めました。
f:id:himetaka2018:20250104212011j:imageただ、もし親の反対を押し切って札幌まで行っていたとしてもこの年の「利尻」はもうC55牽引ではなかった可能性があります。
f:id:himetaka2018:20250105125446j:image蒸気機関車ファンとしてはやっぱりC62は特別な存在で、なんとしても定期運用がある間に見ておきたいと思って決めた旅行でした(写真はこの旅行のために購入した鉄道ジャーナル別冊の撮影ガイド)。
実際には「ニセコ」運用離脱後も1972年10月1日まで長万部〜小樽間の普通列車1往復にD51と共通で定期運用されていました。
f:id:himetaka2018:20250105220023j:imageなお当時の関西では地理的に近い「伯備線D51三重連」が大フィーバーし、お立ち台である「ぬのはら」の名前はタバコ屋のお婆ちゃんでも知っているとまで言われていました。
【残っている記憶】
①当時新幹線は東京-新大阪間のみだったので、姫路から快速電車で新大阪に行った。
②途中の西明石駅で工事中の新幹線西明石駅の防護壁にいた猫に指鉄砲で「べいん!」とか言って遊んだ(窓は開いていたと思う)。
③上野から臨時の夜行急行に乗ったら、当時としては画期的な全車冷房付きの12系客車だったので驚いた。
・帰りの列車は定期急行の指定券を買っていたが、慌てて時刻表を調べて12系客車使用列車を探して乗車変更した。
・時刻表には12系客車使用とは記載されていなかったが、寝台やグリーン車が連結されていない全車指定席列車を狙って取った。
・牽引機がEF57だったので、乗った列車は東北本線経由の急行「八甲田」と思っていた。
五稜郭駅から五稜郭機関区までは徒歩で往復、暑くて途中の駄菓子屋でジュースを買った記憶がある。
・機関区事務所で住所と名前を記載してヘルメットを借りたが、私の頭周りが小さいのでメットが固定されず撮影時に邪魔になった。
・初めて見るC62やD52はただただデッカイという印象だった。
五稜郭の駅員さんに姫路から来たと言ったら、「あぁ、シメズね。」と返されて話が通じているのか心配になった。
函館駅に戻ってホームを挟んで並んでいるキハ82系「北斗」とC62牽引「ニセコ」を撮影、「ニセコ」の出発を見送った時に、発車時に鳴らされた汽笛の音の大きさに驚いたことを覚えている。
⑥帰りの青函連絡船を乗換口で待っている時に、函館駅2番ホームに到着した「ニセコ1号」を見た。
・牽引機はC62 16号機だった。
⑦帰りも目論見通り12系客車の臨時急行に乗った筈であるが、行きほど感動しなかったのか全く記憶に残っていない。
【検証】
f:id:himetaka2018:20210528102228j:imageこの旅行で実際に使っていた時刻表が出てきたため、これを使って記憶を検証しました。
ラッキーな事に姫路から帰りの上野着までの乗車列車に印を付けていたため、列車の特定は容易でした。
f:id:himetaka2018:20250112025539j:image旅の始まりは播磨新宮発姫路行の客車列車(1828レ)で、姫新線無煙化は津山機関区のC58が1971年3月24日、姫路ー播磨新宮・上月間の区間列車を牽引していた姫路第一機関区のC11は同年1月中だったので真新しいDE10が牽引していたはずです。
 姫新線1828レ 播磨高岡09:34→姫路09:41
f:id:himetaka2018:20210523162632j:image写真は1971年2月10日の姫路第一機関区の様子で、姫新線用のDE10や播但線用のC11が見えます。
f:id:himetaka2018:20250112003205j:image①の記憶通り姫路から新幹線に乗り継ぐ新大阪までは播州赤穂草津行の762M(赤枠)普通(明石〜京都間快速)電車に乗車しました。
 京阪神快速762M 姫路10:04→新大阪11:45
f:id:himetaka2018:20250112014003j:image余談ですが写真の時刻表白枠の列車は電気機関車(たぶん広島機関区のEF61)が牽引する客車列車で、山陽本線姫路電化後に開設された東加古川駅魚住駅など電車用ホーム(地上高が高い)の駅は客車では乗り降り出来ないため通過していました。
f:id:himetaka2018:20250112014325j:image京阪神快速電車は岡山直通車を除き1968年10月に113系化されており、編成の構成はグリーン車付きが中間部にグリーン車とサハ代用のクハ111 をつないだ8両編成で、グリーン車無しはそれから単純にサロを抜いた7両編成でした。
草津←TcMM'TcTsMM'Tc1→播州赤穂
f:id:himetaka2018:20250101023003j:image当時は普通車はおろかグリーン車でさえ非冷房が当たり前で、グリーン車の冷房化は1972年から、普通車は1974年4月〜7月に登場した湖西線用700番台と1977年10月から投入開始された0'番台からになります。
f:id:himetaka2018:20250112015706j:imageただ同じ113系でも1970年10月から京都ー西明石間で運転開始した新快速用車両は、競合する阪急や京阪に対抗するために1971年夏には全ての新快速用車両が冷房化されています。
f:id:himetaka2018:20250112135151j:imageこれらの車両は、1970年の万博輸送用に大船区(東フナ)から大挙して網干区(大ホシ)に移動したスカ色の113系0番台初期車で、1972年3月15日のダイヤ改正で新快速を153系に交代した後は鳳区(天オト)に移って阪和線の新快速になりました。
f:id:himetaka2018:20250112135610j:image気になるのは②の記憶にある新幹線西明石駅工事用壁にいる猫を見たことで、距離的に在来線西明石駅の最も北にある1番線に止まったと思っていたのですが、このホームは外側線(列車線)で通勤時間帯を除いて優等・貨物列車専用になるため、ホームを挟んだ電車線である3番線に止まった電車から見たことになります。
f:id:himetaka2018:20250104011853j:image実際に西明石駅へ見に行くと3番線の姫路寄りのホームであれば新幹線駅はかなり近いことが確認され、ここなら新幹線駅の防護壁に猫が居てもわかると思いました。
なおこの電車は西明石に5分間停車していますので、猫と戯れる時間は充分にあったことになります。
f:id:himetaka2018:20250112115036j:image新大阪からは見るのも乗るのも初めての新幹線(0系0番台)「ひかり38号」で東京に行きました。
「ひかり号」は1-99号が定期列車で300番台号が不定期列車、在来線と違って下り新大阪行が奇数(1号・3号…)で上り東京行は偶数(2号・4号…)と区別されていました(在来線は1978年10月2日のダイヤ改正で変更)。
 特急「ひかり38号」新大阪12:05→東京15:15
f:id:himetaka2018:20250103231023j:image初めて乗った新幹線でしたが、転換クロスシートだったことと新丹那トンネルを抜けた後の熱海の景色ぐらいしか記憶に残っていません…この頃から新幹線には興味なかったんですねぇ。
f:id:himetaka2018:20250112154041j:image③の記憶とは異なり上野から常磐線経由青森行の急行「十和田53号」に乗車しました。
この列車は7/31→8/24運転の臨時急行で、当時は8月頭からお盆までが繁忙期で8/20を過ぎると旅行客は激減しており、私達が乗車した時もずっとボックス席に2人だけでした。
 急行「十和田53号」上野16:18→青森04:29
f:id:himetaka2018:20210512161546j:image実家の整理でこの列車の切符が見つかり、乗車したのが1971年8月23日、この旅行が8/23〜25であることが判明しました。
f:id:himetaka2018:20250112172336j:image東北本線常磐線も途中で直流1500Vから交流2万Vに切り替わりますが、常磐線は走行中の車上切替方式なのに対し東北本線黒磯駅構内での地上切替方式のため、常磐線の牽引機は上野ー平(現いわき)間が交直流電気機関車で平ー青森間が交流電気機関車東北本線の牽引機は上野ー黒磯間が直流電気機関車で黒磯ー青森間が交流機関車です。
f:id:himetaka2018:20250103222326j:image乗車した急行「十和田53号」は常磐線経由なので牽引機は交直流電気機関車EF80です。
f:id:himetaka2018:20250112173359j:imageなぜ直流電気機関車のEF57と勘違いしたのかについて、ひょっとして上野駅の構造が複雑で地上ホームに行くのに時間がかかって牽引機を見に行くヒマがなくなってしまい、その時に到着した列車の牽引機がEF57だったことで記憶が混じったのではないかと推察して調べたところ、16:04着の急行「まつしま52号」が唯一該当しましたが到着番線が6番線となっており、果たして地上ホームの14番線から2階ホームの牽引機が見えたのかは疑問です。
f:id:himetaka2018:20250112181529j:image次に考えたのは乗車列車の牽引機を見に行った時に他の列車の先頭にいたEF57を見たのではないかということで、東北本線の出発列車を調べたところ15:54発の福島行125レがありました。
この列車は54分間も停まっていること、乗車した「十和田53号」の入線時間に出発すること、同じ地上ホームから発車すること、これ以外に客車列車が止まっていないことなどからこの普通列車の牽引機だった初見のEF57に感動して勘違いした可能性があります。
f:id:himetaka2018:20250112193535j:imageまた上野駅の構造が複雑なため弁当を探すのも大変だったのですが、選んで買った100円の駅弁がとっても不味かったことはハッキリ覚えています。
f:id:himetaka2018:20210523185259j:image③の記憶にある12系客車ですが、大阪万博・波動輸送用と旧型客車の置き換えを目的に製造された冷房と自動扉を備えた新世代の客車で、冷暖房用電源を積んだ事により牽引機を選ばなくなったことが大きな特徴です(多客期でも運用に余裕のある貨物機で運用できる)。
1969年に試作車28両が製造されて宮原区(大ミハ)に配属、1970年には300両が追加され、前期型478両が1971年5月末までに出場しています。f:id:himetaka2018:20210523174513j:image初期の臨時列車ということもあってネットでは「十和田53号」の編成表を探し当てることが出来ませんでしたが、鉄道ピクトリアル757(2005年2月)号によると初期の頃はスハフ・オハx4・オハフの6両編成が基本とされており、編成が短いと感じた記憶はないので基本編成2本の12両で構成されていたのではないかと思われます。
青函連絡船
f:id:himetaka2018:20250103180230j:image青森桟橋は進行方向前に連絡口があり、連絡船内でいい席を取るために乗客がその連絡口めがけて走る青函ダッシュが名物でした。
f:id:himetaka2018:20250112224104j:image前出の切符には4号車とあるので上野方が1号車の東北・常磐線ではかなり後ろだったことになりますが、時期的に繁忙期を過ぎておりここまで乗ってきた急行「十和田53号」でも4人席を2人で占有出来たのでそれほど乗客がいなかったため、この時はそんなに走らなかったのではないかと思われます。
f:id:himetaka2018:20250112202710j:image青函連絡船で運航されていたのは津軽丸型客載車両渡船7隻(津軽丸・八甲田丸・松前丸・大雪丸摩周丸・羊蹄丸・十和田丸)で、どれに乗ったかは全くわかりません。
f:id:himetaka2018:20250112202706j:image大学生時代の1979年〜1982年に青函連絡船を使って北海道へ行っており、記憶が上書きされているおそれがあるため何とも言えませんが、寝転んでいけるので人気がある座席ではなく空いていた椅子席に座ったと思います。
 青函連絡船33便 青森05:05→函館08:55

続きます。

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1970年8月の北陸旅行

先週は、3年半前の「1968年8月の九州旅行〜瀬野八後補機の謎 (1969年8月の東尋坊永平寺も)」を元ネタに九州旅行部分を新しく判明した資料を基に書き直しましたが、今回「1969年8月の東尋坊永平寺」部分についても新しい発見があったので大幅に書き直しました。
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新しく見つかったのはこの切符です。
f:id:himetaka2018:20241217090417j:imageこれは京福電気鉄道永平寺永平寺駅から越前本線福井駅行きの切符ですが、なんと昭和45年(1970年)の発行になっています❗️
これまでずうっと1969年だと信じて以前の旅行記も同年8月に行った事を前提に調査しており、大阪万博に3回も行った年に家族旅行したとは全く思っていなかったです。
f:id:himetaka2018:20241217100812j:imageそういえば母子3人で秋芳洞に行ったことを薄っすらと思い出しました。
f:id:himetaka2018:20241218161619j:image現在では一般的になっている黒谷支洞奥から矢ノ穴ドリーネへ通じる隧道が1963年に竣工したばっかりで、まだ黄金柱からエレベーターでカルスト展望台を回るのが一般的な時代だったと思います。
f:id:himetaka2018:20241218164400j:image真新しい人口トンネルや開通前の黒谷支洞を覗いていた穴などを見た記憶があります。
f:id:himetaka2018:20241221161459j:image1971年は弟と二人で北海道へ蒸気機関車を見に行き、1972年以降は受験を理由に家族旅行に行かなくなったのでこの秋芳洞が1969年で、北陸が1970年に行った最後の家族旅行ということになります。
f:id:himetaka2018:20241217172519j:image見つかった切符から北陸を旅行したのは1970年8月19日-20日であることがわかりましたが、これを検証するための1970年版時刻表が大阪万博人気に乗っかっているのか7,000円以上するため、復刻版が出ない限り入手が難しいことも分かりました。
f:id:himetaka2018:20241217172049j:image仕方がないので手持ちの時刻表の中から1969年11月号か1971年8月号を使うことにしました。
f:id:himetaka2018:20241220175416j:image幸いなことに1970年3月にダイヤ改正はされておらず基本的に1969年10月改正のままで、かつ1970年9月までの間に北陸本線では電化や複線化などの大きな変化がなかった(特急「北越」が定期化された程度)ので定期列車は1969年11月号が使えそうですが、万博輸送もあって7月から9月にかけて在来線の特急急行だけで約11,200本も増発されたので、臨時列車分は調査が難しそうです。
f:id:himetaka2018:20241217193319j:imageまた万博閉幕後にはダイヤ改正があり、この時鹿児島本線(熊本以南)や呉線の電化や京阪神に新快速が新設されるなど大幅な変更があったので1971年8月号の時刻はあまり参考にならないと考えられます。

さて北陸旅行で記憶に残っているのは以下の4項目だけです。
①電車急行の「ゆのくに」に乗車、金津から三国線に乗り換えて東尋坊に行った。
金津を出てすぐにトンネルがあったことを覚えている(昔はトンネルが好きだったみたいです)。
東尋坊に向かったバスの中から線路を見た。
③泊まったのは芦原か三国だった。
④電車に乗って永平寺に行った。
f:id:himetaka2018:20241221223714j:image①の急行は、大阪駅07:30発の「立山1号」では早すぎるため同駅09:50発の「ゆのくに1号」と推察され、記憶に間違いはなかったようです。
f:id:himetaka2018:20241221224333j:imageこの急行「ゆのくに」は、北陸本線の金沢電化が完成した1963年4月20日改正で471系を使った電車急行として誕生したものの1965年10月改正で「加賀」に統合され廃止、1968年10月改正で金沢往復の電車急行3本と七尾線直通のディーゼル急行1往復として復活したものです。
f:id:himetaka2018:20241221224228j:image電車急行に使われた471・473・475系に付いている60Hz識別用の裾帯ですが、当初は電動車のみで付随車には1967年度から1972年度にかけて追加され、1978年度末までに全車撤去されました。
f:id:himetaka2018:20241221163501j:imageまた2等車の冷房改造は1969年4月から1975年4月にかけて全車に実施されましたが、1970年当時はまだまだ冷房車に出会うことは少なかったと思われ、翌1971年の北海道旅行で乗った全車冷房の12系客車に大感激することになります。
f:id:himetaka2018:20241222001743j:imageさらに当初ヘッドマークは大型でしたが、1978年10月改正で小型化されました。
f:id:himetaka2018:20241221181655j:imageなお、北陸地区では前面の列車種別表示窓の埋め込みが1981年度から1985年度にかけて実施され、全面を埋め込むタイプと周りを残すタイプのほかに氷柱切が残っているものもありました(後に撤去)。
f:id:himetaka2018:20241221224951j:imageさて北陸旅行の話に戻りますが、最寄駅の姫新線播磨高岡駅から大阪駅までは記憶がなく、かつ万博輸送で臨時列車がてんこ盛り増発されていた時代なので調査のしようがありませんでした。
f:id:himetaka2018:20241218153554j:image余談ですが、大阪万博に行った時に姫路から茨木まで乗車した万博号は初めて見るスカ色の113系0番台に驚きましたが、もっとビックリしたのはこの電車が通勤時間帯に電車線(内側線)を走ったことで、5分間隔で走る緩行電車に阻まれて線路上に止まっているところを後発の定期電車が列車線(外側線)をかっ飛んで行く姿をギュウギュウの車内(万博号という名前に騙された乗客多数で定期電車より混んでいた)から眺めていました。
大阪駅を09:50に出発した急行「ゆのくに1号」は金津駅に13:02に着き、12分の接続で三国線芦原行の341Dに乗車出来ます。
この三国線は乗車した1年半後の1972年2月29日付で廃止となり、翌3月1日に金津駅は芦原温泉駅に改称されてしまいました。
f:id:himetaka2018:20241216145042j:imageまた記憶にあるこのトンネルは千束トンネルで、線路跡を道路に転用した際に拡幅されたものの現存しています。
f:id:himetaka2018:20241222001116j:image②の記憶から線路は京福電気鉄道三国芦原線と思われ、これを見たことから芦原駅で京福電鉄には乗り継がずに線路横を走る三国港経由東尋坊行きのバスに乗ったものと思われます。
f:id:himetaka2018:20241218151344j:image東尋坊タワーの記憶はなく、観光船に乗って崖の上から飛び込むパフォーマンスを見た覚えはあります(元祖東尋坊のドリャーおじさん?→探偵ナイトスクープで検索すると出てきます)。
泊まったのは国鉄共済組合の保養所で、資料が一切ないので芦原にあったのか三国だったのかはわかりません。
急行ゆのくに1号 大阪09:50→金津13:02
三国線341D 金津13:14→芦原13:20
急行「ゆのくに1号」12両編成(金サワ)
大阪←①Tc M'McTcTsTsTbM'McTcM'Mc⑫→金沢
1〜4号車が普通車の指定席で5・6号車がグリーン車の指定席、車両は471/473/475系
f:id:himetaka2018:20241218181032j:image以前は③と④の記憶から、2日目は宿から三国線で金津まで戻って京福電鉄永平寺線に乗り継いで永平寺に行ったと推察していたのですが、前年の1969年9月18日に金津-東古市間が廃止になっているため、金津から北陸本線で一度福井駅に戻ってから京福電鉄永平寺に行ったと考えました。
f:id:himetaka2018:20241218175404j:image永平寺では回廊を延々と歩いたような気がします。
f:id:himetaka2018:20241218121258j:image帰りは冒頭の切符を使って永平寺駅から永平寺線で東古市に行き、越前本線に乗り換えて福井駅へ出たと考えられます(直通は朝の1本だけだった)。
f:id:himetaka2018:20241218130131j:image当時の京福電鉄福井駅は「国鉄駅の東口の機能も兼ねていた」らしいので、京福電鉄の列車から改札を通らずに国鉄の列車に乗り継げたため京福電鉄の切符が手元に残ったと思われます。
f:id:himetaka2018:20241221225921j:imageこの後の行程については、急行「ゆのくに」だけでも定期2本に対して臨時6本と大増発されていたこともあり、記憶がない状態では特定することが全くできませんでした。
この旅行は、性格上母がいないと飯を食わない父親が来なかったので、何日も留守にして餓死しないように1泊だけの旅行だったと記憶しています。
f:id:himetaka2018:20241216122154j:imageなお、この6年後の1976年3月にも大学受験のために福井を訪れており、その帰りにディーゼル急行のデッキで縦に揺られながら鳩原のループを見たことを覚えています。
f:id:himetaka2018:20241221230815j:image米原経由のため琵琶湖も同じ方向に見えていたはずですが、こちらは全く記憶にありません。
f:id:himetaka2018:20241218111414j:imageこの列車は1978年9月末まで走っていた七尾線乗入れ輪島のキハ58系急行「ゆのくに2号」で、穴水-金沢間は珠洲発の急行「能登路4号」を併結し、金沢-大阪間は新潟発の急行「越後」に併結されていました。
何故か福井で13分も停車し、大阪に18時08分着です。
急行「ゆのくに2号」キハ58系4両編成
大阪←①DcDcDcDcDsDc+DcDsDcDc+DcDc⑫→金沢
1〜6号車は新潟発大阪行の「越後」、7〜10号車が輪島発大阪行の「ゆのくに2号」で11・12号車は珠洲発金沢行の「能登路4号」、グリーン車2両と6号車が指定席、所属は1〜10号車が長ナノで他が大ミハ
f:id:himetaka2018:20241218111849j:image今回の記事に出てくる京福電気鉄道福井鉄道部は、2000年12月17日のブレーキロッド破損による正面衝突事故と、2001年6月24日の見習い運転手の信号見落しによる正面衝突事故のため2001年10月19日に廃止され、2003年からえちぜん鉄道として営業再開されています。
f:id:himetaka2018:20241218120240j:image儲からない鉄道を存続させたのは、バス転換による輸送力低下やマイカーの急増による渋滞の慢性化に加えて、鉄道が無くなった2001年の積雪時に幹線道路が交通マヒして全く動かなくなり通勤通学が困難になった事が一因とも言われています。

以上

 

 

 

1968年8月の九州旅行

本記事は3年半前に投稿した、自身の記憶に残っている最初の家族旅行である1968年8月20日〜22日の熊本・阿蘇山旅行記を、更新された資料に基づいて大幅に修正したものです。

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還暦を大幅に過ぎて急速に衰えてきた記憶が完全に錆びつかないうちに昔の旅行の行程を確認する事にしました。
f:id:himetaka2018:20210509130025j:image記憶にある最初の家族旅行は1968年8月20日〜22日に行った熊本・阿蘇山で、上の写真は乗車した電車急行から撮ったもので、ボケていて食堂車の位置がわからないうえ色彩が失われているので475系か153系か判別できませんが、先頭か最後尾あたりに乗っていたみたいです。
f:id:himetaka2018:20210509112914j:image現時点で断片的に残っている記憶(下記①〜⑩)を基に交通公社の国鉄監修時刻表1968年9月号と照らし合わせるつもりでした。
f:id:himetaka2018:20241215184345j:imageヨンサントオの前月号なので当然買ってある筈と思い込んでいたようで見つけることは出来ず、仕方がないので手元にある1967年9月号を使って検証しました。
ただこの時刻表から実際に旅行に行くまでの間の1967年10月にダイヤ改正があり、乗車した「しらぬい」はこのダイヤ改正からの運行であり、また「ひまわり」や「火の山」も本数等に変化があったので、これらはネットで探してきました。
f:id:himetaka2018:20241215184629j:imageその後、この旅行の時期ピッタリの1968年8月号が比較的安価に入手出来たため、これの内容に従って追加・修正しました。
f:id:himetaka2018:20241215183424j:imageちなみに以前は五千円近い価格が付いていた1967年10月号ですが、復刻版が発刊されたため新品が1,980円で入手可能となりました。
f:id:himetaka2018:20241215183821j:image有名なヨンサントオも紙書籍版が復刻されていて1,980円で買えます。
コレクターではないので、資料としては復刻版の方が安くて中古臭がないので有難いですね。
【一日目】
①始発の姫新線(気動車)に乗ったらしく、行商のおばさんが数名いた。
②姫路から乗った電車は超満員で、どの辺りかで親に呼ばれて移動したら座ることが出来た。
③乗った電車は「しらぬい」だった。
f:id:himetaka2018:20241215185520j:image先ず③の記憶から急行「しらぬい」を調査、この列車は1967年10月に「有明」を改称して1968年9月末まで運行されたので乗ったのは間違いなさそうですが、岡山発熊本行のため姫路から岡山まで別の列車に乗る必要があります。
f:id:himetaka2018:20241215185651j:image時間的に合致するのは姫路発06:25の1345Mで、この乗り換えが②の記憶になったのではないかと考えましたが、この電車は姫路始発のうえ姫新線の到着が06:04と20分以上も前に着いているのに、早朝にもかかわらずなぜ座れなかったのかは疑問です。
f:id:himetaka2018:20210509134239j:image車掌さんに頼んで撮らしてもらったのか、関門トンネル門司口の写真が残っていました。
熊本以南が電化されていなかったこの時期の熊本駅にはC60やC61がゴロゴロいた筈で、一枚も写真がないのは今から思うと勿体ない話です。
姫新線852D 播磨高岡05:57→姫路06:04
山陽本線1345M 姫路06:25→岡山08:03
急行「しらぬい」岡山08:30→熊本17:23
【二日目】
④熊本城から水前寺公園に行った。
何故か親父が怒って途中からいなくなったことだけが鮮明に残っている。
⑤母親から乗っている列車の名称「ひまわり」が、花の名前ではなく循環列車の意味であると聞いた。
またスイッチバック(立野)がある事を事前に親から聞かされた。
阿蘇山で火口まで行ってマウントカーを見た。
また山を下りるバスがなく、白タクに乗った。
⑦別府には食事付きの宿に泊まるにしては遅い時間に着いた。
阿蘇から大分に抜ける線はトンネルばっかりで何も見るところがなく、子供がトンネルの数を数えるぐらいだと駅員に言われた。
f:id:himetaka2018:20241215192505j:image④の記憶から午前中に熊本城と水前寺公園を見たあと昼から移動して阿蘇山へ行ったと思われ、これに該当するのは水前寺発12:07の急行「第1火の山」と14:34の急行「第2ひまわり」ですが、⑤の記憶から「第2ひまわり」に乗ったとすると阿蘇に15:46着です。
f:id:himetaka2018:20241215194226j:imageその場合、阿蘇駅を16時発の九州産業交通バスに乗ると阿蘇山西に着くのが16:40になり、この時点で「第2火の山」に接続するバスがなくなるため、そもそも心配性の父親がそんな計画を立てていたのかがとっても疑問ですが、「第1火の山」では阿蘇山西に14時着なので相当時間が余ることになりマウントカーに乗るとかしたはずです。
f:id:himetaka2018:20210509133148j:imageまた⑥の記憶にある火口まで行くには阿蘇山西ー火口西をロープウェイに乗る必要がありますが、この運転が17時までなので火口西についた時点で帰るロープウェイもなくなることになり、タクシーを使わない限り阿蘇駅17:49発の別府行急行「第2火の山」には間に合いません(火口西まで車でも行くことが出来ます)。
両親は1955年に新婚旅行で阿蘇山に来ているので、その時の経験からこんな計画を立てたのかとも思いましたが、慎重で心配性な父親にしてはかなり無謀なプランに見えます。
ひょっとしたら熊本で父親が勝手にどっかへ行ったりしたので「第1火の山」に間に合わなくなり予定変更を強いられた結果、白タクと交渉して予定になかったタクシー料金を少しでも安くしようとしたからかもしれません(最近になって母親が、あの時は父親が帰ってくるまでその場でずっと待っていたと言っていた)。
この「第2火の山」の別府到着は20:00で⑦の記憶に合致します。
ただ阿蘇駅あたりで父親が旅館に「遅くなります」と電話していた気がするので、本来は「第1火の山」→「第2ひまわり」で別府17:50着の予定だったのが、上記ハプニングで遅くなったという可能性が高いです。
f:id:himetaka2018:20210509133110j:imageなお、マウントカーとは火口西と火口東を専用道路で結んでいた車両で、前1軸・後輪2軸の全輪駆動とし、火山弾対策のため開口部を小さくした窓ガラスに防護カバーを取り付けていました。
f:id:himetaka2018:20241215201428j:imageこのマウントカーも時刻表に記載されており、料金はロープウェイと同じ100円でした。
f:id:himetaka2018:20241215202341j:imageまた特急料金が30円!の特急バスは「観光特急おおあそ号」のことで、熊本駅前と阿蘇山西を結んでいました。
急行「第2ひまわり」水前寺14:34→阿蘇15:46
九州産業交通 阿蘇駅16:00→阿蘇山西16:40
急行「第2火の山」阿蘇17:49→別府20:00
【三日目】
門司港駅からバスで関門トンネル人道入口へ行く途中、道路脇にあったトンネルが強く記憶に残っている。
関門トンネル人道出口から下関駅までは路面電車に乗った。
⑩下関から姫路まで乗車したのは「関門」で、セノハチでデッキ付きの電気機関車の後押しと走行中の解放を見た。
f:id:himetaka2018:20241215205156j:image⑧の記憶にあるトンネルは市営田野浦公共臨港鉄道の和布刈トンネルで、平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線としてトンネルと共に現存しています。
f:id:himetaka2018:20210509134528j:imageこのトンネルをこえた先に関門トンネル人道門司口があり、ここからエレベーターでトンネルに降りていきます。
f:id:himetaka2018:20210509134208j:image歩いて海峡を渡り、関門トンネル人道下関側口から出てきて九州方面を望んでいます。
f:id:himetaka2018:20241215213312j:image⑨の記憶にある路面電車は山陽電気軌道(現サンデン交通)で、位置的に御裳川(電停)から下関駅まで乗っています。
f:id:himetaka2018:20241215215007j:imageその後に乗った下関から姫路まで直通していた列車は「関門」と「つくし」のみで、⑩の記憶から下関12:20発の急行「第2関門」を利用したものと思われます(「つくし」の場合は475系なので、セノハチでの後押しがない)。
この急行「関門」は東海道新幹線開業時に新設(大阪ー下関間)、使用したのは153系で6M6Tの12両編成のためセノハチを単独で登ることは出来ず、「関門」が廃止される1968年10月改正まではEF61+オヤ35で後押ししていた筈です。
いくら50年以上前の記憶とはいえ目の前にあったのが客車だったのか電関のデッキだったのかを間違えて覚えるとは考えにくいので、後押しが無くなる直前はEF59になっていたのかと考えたのですが、いくら調べても153系をEF59が押したという記録は出てきませんでした。
写真がないのでEF59だったとも言い切れず謎のまま残ってしまいました。
一緒に見た父親は亡くなってしまいましたし…f:id:himetaka2018:20210509171651j:imageその後で尾道大橋を撮影していますが、この時続けてパチパチと2枚撮ったら「勿体ない」と父親に怒られた事を憶えています。
急行「第2関門」下関12:20→姫路19:49
姫新線833レ 姫路20:51→播磨高岡20:57
ここで最後の疑問が…姫路駅で1時間も待ったのかな?
まぁこの列車は姫路20:18着の折返しになるので列車が到着すれば車内で待つことは出来るし、当時の感覚では1時間くらいの待ち時間は当たり前だったのかもしれません。
ちなみに、この姫新線の列車は3桁の列車番号なのでC58牽引ですね。
電車急行については編成・号車番号・席種別も調査済みで、一等車は冷房・二等車は非冷房でした。
急行 しらぬい:475系12両編成(門ミフ)
熊本←①TcM'McTbTsTsM'McTcTbM'Mc⑫→岡山
Tsはサロ455淡緑帯付一等車で、5号車は自由席、6号車が指定席、また7号車は二等車指定席、60Hz識別用の裾帯は1967年8月生産分から付随車にも付けたので、この頃は全車にあったと思われます(1981年頃に消滅)。
急行 開門:153系11両編成(大ミハ)
下関←①TcM'MTsTsTbM'MM'MTc⑪→大阪
Tsはサロ163/165淡緑帯付一等車で、4号車は自由席、5号車が指定席。
これまで山陽急行には3号車と4号車の間にサハシ153が連結されて、サハシ+サロ+サロ+サハシという構成になっていたのですが、この年の6月にサハシ1両が外されてしまいました。

元記事にあった「1969年8月の東尋坊永平寺も」の部分も修正しました。

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ハドソン三兄弟が引いた特急「はつかり」⑤

グリーンマックス製の特急はつかり用客車キットの続きで、前回のスハ44と同じ要領でスハニ・スハフ・ナロにベンチレーターを取付けます。

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f:id:himetaka2018:20241203215708j:image24時間自然乾燥させて接着剤を硬化させた後、床板と同様にいつでも塗装出来るように中性洗剤で洗って乾かせておきます。
f:id:himetaka2018:20241203164242j:imageこの屋根の色ですが、実車は銀色で製造され運用時には煤煙でダークグレーになっていたため、色々考えたすえ登場時の銀色に決めて落ち着いた感じに仕上がると聞いたシルバーリーフを選択していました。
f:id:himetaka2018:20241110141657j:imageところが製品の屋根色指定において、以前に30年前の製品は銀色で現在の製品は銀色もしくはダークグレーと言いましたが、この着色済みキットでは指定がなくなり成形色のダークグレーだけになっていることを発見したため、今回はこれに合わせてダークグレーに変更しました。
ただ屋根の塗装は天候の都合になるので、後回しにして本体にかかります。
f:id:himetaka2018:20241208015144j:imageランナーから二度切りしたあとカッターナイフで切り取ってゲートを処理します。
f:id:himetaka2018:20241208161835j:image雨樋が出っ張っていてここに屋根板を嵌めると思うので、この段差部分を残した形でヤスリで平滑にしないと屋根板が浮く可能性があり、コレの整形が結構難しかったです。
f:id:himetaka2018:20241208015601j:imageただこの雨樋、片側はクッキリとモールドされていますが、もう片方はあいまいなんでどこまで削ったら良いのかよくわかりませんでした。
f:id:himetaka2018:20241208175941j:image以前にGM板キットの持つエラーは修正はしないと言いましたが、車高だけは他社製品と並べることを考えて側板のリブを付け替える方法で低くします。
f:id:himetaka2018:20241208175107j:image先ず側板の裏側にモールドされている床板を止めるためのリブをニッパーで切り取り、カッターナイフで残っている部分を削ります。
f:id:himetaka2018:20241208181552j:image続いて方向(1と2)をマジックで書いてからヤスりますが、上側をちょっとだけ残して新しいリブのガイドにします。
f:id:himetaka2018:20241208180006j:imageこのガイドを目印に1mm角のプラ角棒を貼り付けます。
これらの作業を9両全部に行うので結構大変です。

続きます。

 

ハドソン三兄弟が引いた特急「はつかり」④

グリーンマックス製の特急はつかり用客車キットの続きで、今回はベンチレーターの取付けです。

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f:id:himetaka2018:20241126015229j:imageその前に暖かで風の弱い日が訪れたので、用意していた床下を塗装しました。
f:id:himetaka2018:20241126015609j:image使ったのは艶消し具合が良いと評判のMr.フィニッシングサーフェイサー1500ブラック(ブラックサフ)で、フラットブラックよりも落ち着いています。
f:id:himetaka2018:20241130170157j:imageまた最近になってネットで見つけたシュッシュッという缶スプレーの吹き方を実践してみた結果、今までのようにエアブラシと同じシューとやって起こっていた液垂れや表面の荒れはなくなりましたが、結構な濃淡が出来てしまいました。
まだまだやり方に問題があるようです。
f:id:himetaka2018:20241130165705j:imageさてベンチレーターですが屋根板と同じランナーに付いているガラベンは、他社の旧完成品で使われていた屋根一体型のベンチレーターより酷い形状なので、別添ランナー品のガラベン(70-5として別売されている)を使います。
今回は同一車種が複数台あるので、手間のかかるガラベン取付位置を決めるためのジグを作ってみることにしました。
f:id:himetaka2018:20241124161335j:image屋根板の大きさが幅18mm高さ5mmなので、厚さ0.5mmのプラバンを幅18mmと6mmに切断してコの字に組みます。
f:id:himetaka2018:20241124161319j:image切り出し精度に難があるため、ちょっと歪んでいる気もしますが屋根板がしっかりホールドされれば問題ないはずです。
f:id:himetaka2018:20241124203017j:imageスケールを2本使って簡易的に直角を作って切断位置をケガきます。
f:id:himetaka2018:20241124214543j:image続いて幅6mmで長さ19.5mmに切り出したものを片方の端と上に貼り着けます。
f:id:himetaka2018:20241124214948j:image屋根板を押し込んで隙間なくハマることを確認します。
f:id:himetaka2018:20241124215832j:imageここで幅18mmのプラバンを車種分用意し、これに各車両のベンチレーター位置をケガいていきます。
f:id:himetaka2018:20241124161327j:imageこの時にプラバンにマスキングテープを貼ってケガき易くします。
f:id:himetaka2018:20241124161331j:imageこのガイドを屋根板の上に差し込んでベンチレーター位置を屋根板に書いていけば取付位置が決まるはずです。
f:id:himetaka2018:20241130163653j:imageガイドにケガいた取付け位置に先ずφ0.3mmのドリルで穴を開け、続いてφ0.6mmのドリルで拡大し0.5mmのシャープペンシルの芯が通るようにします。
これをジグにセットしてシャープペンで屋根板に取付位置の印をつけていきます。
f:id:himetaka2018:20241201215328j:image次にこの印を目印にしてベンチレーターの取付足の穴を開けるために、取付足の大きさを調べようと思って現物を見た時にGMのガラベンには取付足が付いていないことに気がつきました。
f:id:himetaka2018:20241201215253j:imageマヌケなことに取付足のあるキングスホビー(アルモデル)のガラベンと勘違いしていて、これではせっかく作ったジグが全く役に立ちません…(T ^ T)
f:id:himetaka2018:20241201023123j:image結局屋根板にガラベンの取付位置を鉛筆でケガくことになりました、なにをやってんのだか…
f:id:himetaka2018:20241201030458j:image気分を換えるためにガラベンの切り取り作業を先に行いましたが、ゲート部分をヤスると吸入口のディテールが潰れてしまいそうだったので一発で切り取れるゴッドハンドのアルティメットニッパーを使いました。
この高価なニッパー、買ったはいいけどちょっと斜めにカットしただけで刃がコボれると聞いていたので、もったいなくて使っていませんでした。
f:id:himetaka2018:20241201031306j:image噂通り恐ろしく切れるニッパーで、残ったゲート(赤丸⭕️部)はカッターナイフで削るつもりでしたが殆ど使わずに済みました。
f:id:himetaka2018:20241201223020j:imageこのガラベンをゴム系接着剤(ボンドGPクリヤー)で屋根板に貼り、位置を修正したあとスケールを全部のベンチレーターに当てて直線性を確認し、はみ出た接着剤を爪楊枝で除去します。
f:id:himetaka2018:20241201215618j:image余計なジグを作ったこともあり、スハ44 3両と食堂車2両分で時間切れです。

続きます。

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