ひめたか鉄道2018

会社を定年退職して嘱託になり時間ができたことと、会社行事で見たアニメの銀河鉄道に出てくる車両に触発されて、これまで時間に追われてほとんど出来なかった鉄道模型を、ちょっと真面目かつ気楽に再開することにしました。

今さらのBトレ 1971年8月の113系京阪神快速電車③

f:id:himetaka2018:20210723163808j:image京阪神快速用113系0番台初期型非冷房車の屋根に5回目の挑戦ですが……f:id:himetaka2018:20210723164630j:imageやっぱり跡が消えませんし、やり直しばっかりで疲れてきたのかなんか前より雑になっている気がします。これを最後に凸になっている赤マル部は少し削り、凹になっている青マル部はちょっとだけパテを塗って削ります。次にグロベン取付け用にφ1.0mmの孔を、車端から12mmでベンチレーター間18mmの位置に開け、GM鉄道カラーSP35ダークグレーを吹きました。f:id:himetaka2018:20210621210932j:imageグロベンはTOMIXのPB-104グローブ形ベンチレーターの新型を使います(Cと刻印されている方です)。f:id:himetaka2018:20210621213454j:imageグロベンの台座は付いていませんので、BONAのP-118ベンチレーター台座【トミー用】を使い、小さいけど一応金属パーツなので、サンポールに浸けてジフで磨いてからベンチレーターと一緒に中性洗剤で洗ってGM鉄道カラーSP9ねずみ色1号を吹きました。屋根板に指定された1.0mmの孔を開けて差込み裏から……あれっ?穴が狭くて入らない!f:id:himetaka2018:20210714005054j:imageノギスで測ると1.1mmありますね〜台座の孔も1.0mmですからTomixが仕様変更したんでしょうか?f:id:himetaka2018:20210720110754j:imageまず台座の穴をφ1.2mmで拡幅してから台座とグロベンを組み合わせて瞬間接着剤で止め、同様に取付穴をφ1.2mmで広げた屋根板に差込んでこちらも瞬間接着剤で止めます。f:id:himetaka2018:20210721185111j:imageクハの運転席上にある箱型ベンチはTomixのPB-105箱形通風器を使います。f:id:himetaka2018:20210714102151j:imageこれの取付け足を測ったら1.39mmだったので1.4mmの穴を開けて瞬間接着剤で止めました。f:id:himetaka2018:20210722020103j:image信号炎管とジャンパ栓を加工した前面の方向種別幕にペンギンモデルの行先側面方向幕シールNo.5の「米原」を貼りつけました。f:id:himetaka2018:20210722022716j:image編成に変化をつけるために姫路方先頭車の運転台上部のベンチレーターはグローブ型のままとしました。このタイプ(1-48、301-332)は1976年4月の大タツに5両(328-332)在籍していました。f:id:himetaka2018:20210722135207j:imageモハ112の避雷器も交換します。製品のモールドを切り飛ばして裏から1.6mmの穴を開け、Z03P0335モハ164-817こまがね避雷器を差し込んでゴム系接着剤で止めます。f:id:himetaka2018:20210723140330j:image下回りは走行台車Tと動力ユニット3を使ってN化し、中間部はカトーカプラーNJPA黒に、編成端部はダミーカプラーに交換、中間封入のクハのカプラーからジャンパ表現を切り取ったうえスカート下部の出っ張りを削ります。f:id:himetaka2018:20210723135139j:imageこれで一応完成です。車番と所属標記は阪和線分と合わせてくろま屋さんに在庫確認のメールを出しましたが、超多忙のようで1週間経っても返事がありませんし、HPには在庫品でも1ヶ月以上かかりますと記載されているので気長に待つ事にします。f:id:himetaka2018:20210723141651j:imageサロ152の黄柑色はGMの鉄道カラーSP-03とほぼ同じですが、113系より黄色味が強く感じられます。f:id:himetaka2018:20210723141631j:imageまた屋根に塗ったGMのダークグレーはもっと光沢を抑えたほうが良さそうですね。なおサロの一体型ベンチレーターは思ったほど目立たないので、そのまま塗装するつもりです。あ、グリーンマークも必要ですねーf:id:himetaka2018:20210723164002j:image

 

以上

 

2019年6月の姫新線 キハ127系

天気予報ではこの土日は晴れだったので、仕掛り中の113系の屋根板塗装をやろうと思っていましたが、土曜日は終日強風、日曜日は朝から晩まで曇で湿度が70%と全く塗装の出来るコンディションではありませんでした。そこで今回は最近入手したキハ127系の整備です。f:id:himetaka2018:20210718172501j:image2019年6月に父親が亡くなり、葬儀の他に各種名義変更の手続き等のために煩雑に電車で実家へ帰るようになりました(これまではほぼ車でした)。f:id:himetaka2018:20210712014207j:imageこの時利用したのが新快速の223系(不思議と225系には出会いませんでした)と姫新線キハ122/127系です。f:id:himetaka2018:20210718143257j:imageこの気動車は、姫新線輸送改善工事に伴って導入されたもので、兵庫県姫路市たつの市佐用町が事業費の一部を負担して製造、2009年3月14日から営業運転を開始しています。f:id:himetaka2018:20210718173316j:image当初はDMH17でない今ドキの気動車なんてまるで興味がなかったのですが、何回も乗っているうちに親近感が湧いてきたため、唯一発売されている鉄道コレクションキハ127を入手しました。f:id:himetaka2018:20210718173606j:imageトイレ付の2号機とトイレのない1002号機のキハ127開封セットで、N化部品も一緒に用意して動力化をはかりました。f:id:himetaka2018:20210718173637j:image車間を詰めるために連結側を密連形TNカプラーJC41(電連なし・グレー)に換装しましたが、増結はしないので運転台側はダミーカプラーのままです。f:id:himetaka2018:20210718173938j:image鉄コレは動力ユニットが大き過ぎて室内表現が出来ないという欠点がありますが、これを言い訳にして室内灯は入れていません。f:id:himetaka2018:20210718182620j:imageまた前照灯の設置も私では技術的に無理(仮にやったとしても失敗して途中で投げ出すのが関の山)で、もけいや松原さんの取付けサービスを利用しようかとも考えましたが、ちょっと価格が…で止めました。f:id:himetaka2018:20210718181618j:imageこれで整備完了です。長年利用してきた姫路駅も高架化され、ずっと見てきた姫路第一機関区は跡形もなく整地されてビルになってしまい、昔の面影が残るのは「駅そば」ぐらいになってしまいました。

 

以上

今さらのBトレ 1976年夏の紀州路 113系新快速/快速

f:id:himetaka2018:20210705114522j:image整備中の113系0番台初期非冷房車8両編成ですが、天候不順で屋根板の塗装が出来ずに作業が進まないので、その間に手に入れた阪和線113系を整備します。f:id:himetaka2018:20210705114454j:imageメルカリに出品されていた4両編成の113系初期型関西色を見て、初めてこの色の電車(阪和線快速)に乗った1976年初夏の日帰り旅行を思い出しました。
面白いことに調査してみると記憶に残っている内容とことごとく異なっていることが発覚しました。記憶では名古屋からキハ58系の急行「かすが2号」に乗り、途中で解併結しながら関西本線奈良線・桜井線を経由して和歌山線に入るルートで和歌山に出た事になっていました。ところが調べてみると和歌山線を走る急行は京都発の「しらはま1号」だけで、かつ「かすが」とは併結されないためこのルートで名古屋から和歌山に行くことは出来ません。順当に考えて急行「しらはま」で京都から和歌山に行っただけと思われます(以前は名古屋発着の「しらはま」があったようです)。f:id:himetaka2018:20210703153421j:imageまた和歌山から天王寺までの阪和線で、冒頭に述べたように113系快速電車に乗りました(写真は1982年秋に関西本線で撮影)。乗った時に「涼し〜」と思った覚えがあったため、京阪神と違って阪和線は新快速だけでなく快速も冷房されていると信じていましたが、こちらも調べてみると1976年4月時点で関西色14編成中冷房車はたった2編成しかないことがわかり、たまたま冷房車に当たった可能性がないとは言えませんが、この旅行で和歌山の高校生と知り合いになった縁でこの後何回か和歌山へ行ったので、この時に乗った新快速電車と記憶がまじってしまったのだと思われます。f:id:himetaka2018:20210629161829j:image阪和線113系は、大阪万博輸送用に大船区から転入してきた0番台初期車が、初代京阪神新快速として活躍した後に6両x3編成(全て冷房車)が鳳区に移って阪和線新快速となったのが最初です。従って紀勢本線が電化されるまでは全車0番台のグロベン冷房改造車でした。なお虎の子の冷房車を転出させるに当たって大鉄局はかなり抵抗したらしいです(そりゃそうでしょう)。f:id:himetaka2018:20210705013412j:imageさて冒頭の113系関西色4両セットは西日本スペシャルと思われ、全てグロベン仕様の初期型冷房改造車組立品で付属品やステッカーなし・HGシャシの台車レリーフが一部欠如していたせいかかなり安かったので思わずポチッと…今さら増車してどうする?と後悔していたところ、今回の大規模整理で買った記憶のないパート4の113系初期型阪和色6両開封セットが出てきました(おぉ!)。f:id:himetaka2018:20210710151745j:imageこの製品は2軸シャシだったので、台車レリーフの足りない関西色とまとめてKATOの小型車両用台車/動力ユニットを使ってN化しました。f:id:himetaka2018:20210710164001j:imageこれらにはDT33風のオイルダンパー付コイルバネ式(通勤電車1)、DT61風のボルスタレス式エアサス(通勤電車2)、DT32風のインダイレクトマウント式エアサス(急行電車1)があります。f:id:himetaka2018:20210709131040j:image今回は形状がDT21Bと似ている通勤電車1(11-099)を使用し、M車(モハ113)に動力ユニット(11-105)を入れます。また編成車端部を除いてカプラーを11-703 KATOカプラー密連形Aに交換、先頭車の運転台側はピン付ブロックを使うのでカプラーを撤去してカプラー取付部をカットします。f:id:himetaka2018:20210703155027j:image113系初期車のジャンパ栓は冷房改造時にKE76x2連に変更されたと思っていたのですが、ネットの写真を調べてみると鳳区(天オト)所属車では0番台しかいなかった時代には改造されてなかったようです。f:id:himetaka2018:20210629131328j:imageそこで湘南色非冷房車と同様に先頭奇数車のジャンパ栓受けのモールドに0.6mmの孔を開け、α-modelのKE58ジャンパ栓(ケーブル付)を差し込んで瞬間接着剤で固定します。スカートに当たる部分を削り、GM鉄道カラー灰色9号とタミヤエナメルXF-1フラットブラックを筆塗りしました。天オトの信号炎管は写真で見る限りバラバラなので取り敢えず製品(凸型)のままとしました。関西色車両の先頭車は一旦分解して運転台側のブロックをピン付に交換、ピン付ブロックが当たらないようにシャシの端を切り取り、全車に貼ってあった車番シールを剥がしました。阪和色は運転台側にピン付を、その他のブロックもHGシャシ用に交換して組立て、シャシは余剰品のHGシャシを、パンタグラフはKATO11-420 PS16Bを使用しました。f:id:himetaka2018:20210710154126j:imageKATOの小型車両用台車はBトレの走行台車やN用台車に比べてホイルベースが短いため床下にスカスカ感があるなぁと思っていたら、銀河モデルの床下バリューセットなるものが出てきました。f:id:himetaka2018:20210704160300j:imageHGシャシ・小型車両用動力ユニットを対象にウェイトと床下機器レリーフ(M車用とT車用に分かれており、かつ空気側と電気側が表現されている!)がTcMM'Tc分セットされています。f:id:himetaka2018:20210709123422p:image旧型国電用とありますが全部で13種類もラインナップされていたようです。f:id:himetaka2018:20210704182333j:image床下機器レリーフはこんな感じで取り付けます。f:id:himetaka2018:20210704182439j:imageウェイトはシャシの凹みにピッタリハマり、今まで使っていた板オモリとはフィット感が全然違います。あくまでもHGシャシに限りますが。f:id:himetaka2018:20210704195008j:imageM車のウェイトはこんな感じで、ちょっと重量が足りない気がします。f:id:himetaka2018:20210704202829j:imageモハユニットは床下機器レリーフの向きを揃えます。f:id:himetaka2018:20210704194643j:image逆にクハ111 は向きによって方向を変えます。
雰囲気向上には便利で使えるパーツだと思ったのですが、流石にBトレ壊滅状態の現在ではとっくの昔に廃版になっていました。業界みんなで新興のBトレを盛り上げようとしていたようですが、所詮オモチャ屋に過ぎなかったBANDAIには伝わらなかったようで、囲い込みと間違った方向に走って「売れなくなったからや〜めた」という判断をされたのは残念です。最後は箱物2両で2.700円、機関車1両で1,620円もしたので、金か熱意がある方しか買わなかったでしょう。f:id:himetaka2018:20210705020044j:imageこのB-208床下バリューセット旧型国電用は2つしか持っていなかったため、阪和色編成には残り1セットとB-003ウェイト[HGフレーム対応]、および形状は異なりますがB-110床下機器 20系客車用を使いました。f:id:himetaka2018:20210710151920j:image床下機器の特徴をしっかりと表現してあるので、正しく使うとかなり見栄えが良くなると思いました(こんなとこまで見る人は少ないと思いますが)。f:id:himetaka2018:20210705114409j:imageさて車番ですが、1976年当時の阪和色車番は付属ステッカーには収録されておらず、関西色もクハ111 はあるのですがモハユニットが1976年当時は非冷房車だったものしかなかったので、前面方向幕・所属表記および阪和線新快速のヘッドマークと一緒に探しています。f:id:himetaka2018:20210706124206j:image

 

以上

 

【番外編】遅れた新快速と列車運行情報アプリ

ブログで書く内容では無いかもしれませんが…f:id:himetaka2018:20210708161244j:image昨日、一~二か月に一度の親の介護で湖西線の新快速を利用して帰省しました。
今回は広島方面で記録的大雨が降っていたので、列車遅延等をJR西日本の列車運行情報アプリで確認しました。残念ながら「その時」の画面をコピーしておく余裕はなかったので、画像は全てイメージです。f:id:himetaka2018:20210708151026p:image運行情報詳細には「遅れの情報はありません」と載っていたのでひとまずは安心…でも列車走行位置情報を見ると乗るはずの新快速のデータは「近江今津行・マキノ辺りを10分遅れで走行中」でした。あれっ近江今津?姫路行じゃないの?もう一度運行情報詳細を見直し、でも運休とは書いてないし…と思って駅に行ったらやっぱりの運休。f:id:himetaka2018:20210708161001p:image仕方がないので普通で京都(山科駅)まで出てみたら新快速は片っ端から運休。ってそんなこと運行情報詳細には書いてないんですけど・・・確かに「一部列車に遅れや運休」とは記載されていますが、これでは全くわかりません。f:id:himetaka2018:20210709105854j:image取り敢えずやって来た快速の加古川行に乗って考えようと思い乗車、JRからは先の見通しは一切出でこないので、情報収集して自分で判断するしか手はありません。ここで役に立ったのが先程の列車走行位置情報で、どこ行きの何列車がどの辺りを走っているかがリアルタイムで見ることができ、また行先が変更になる(=途中で運転打ち切り)のもほぼ同時にわかるので非常に有用でした。残念な事にメインの運行情報詳細は、情報が遅い上に前述のような表現でしかないので、ハッキリ言って情報収集には全く役に立ちませんでした。
結局は乗った快速電車以外に走っている列車がなく、終点の加古川まで行って後続の新快速を待つことになりましたが、この先の加古川-姫路間の運転間隔が1時間半ぐらい開いていたと思われ、救済措置で姫路まで全ての駅に停車することになりました。また運転士さんの回送も兼ねていたのですがその人数にびっくりです。f:id:himetaka2018:20210708161045j:image赤い服の方以外は全員回送される運転士さん…全部で4名もいらっしゃいました(宝殿-曽根間の姫路行先頭車両で2021年7月8日13:40頃撮影)。

今回の件でJR西日本の「列車走行位置情報」はリアルタイムに正しい情報を提供している事が判明しましたので、今後の有事の際の情報収集と状況判断に活用出来るツールであると改めて認識しました。

 

以上

 

1979年8月の北海道旅行 後半

1979年8月の北海道旅行の続きで、深夜の上川駅で折り返して美幌駅で降りた4日目以降の日程を振り返ります。

美幌から阿寒パノラマコースという阿寒バスの定期バスを利用しました。このコースは定期バスといいながら各景勝地で10〜20分の休憩時間があり、定期観光バスとしても利用できるものです。 f:id:himetaka2018:20210624233222j:imageまず停まるのが美幌峠で、展望台から屈斜路湖と中島を眼下に見ることができます。f:id:himetaka2018:20210703140642j:image続いて砂湯や硫黄山を経由して摩周湖に行きます。観光バスが停車できるのは低い位置にある摩周第一展望台ですが、このバスは風景が綺麗なことで知られる第三展望台にも停車します。第一展望台(写真上)からは摩周岳の火口壁を、第三展望台(写真下)では高い位置から周囲を見渡すことができます。f:id:himetaka2018:20210703140619j:imageさらに双岳台と双湖台を経由して阿寒湖畔に行きます。f:id:himetaka2018:20210624233611j:image「双岳台からは雄阿寒岳雌阿寒岳雄大な姿を見ることが出来る」との触れ込みですが、実際の風景は写真の通りで中央に位置するのが雄阿寒岳でその左側に薄く見えるのが雌阿寒岳です。ショボい… f:id:himetaka2018:20210624234236j:image双岳台のすぐ近くに双湖台があり、かつては阿寒湖の一部だったというパンケトウとペンケトウを見ることができます。写真は双湖台から見たペンケトウで、北海道の形をしていると言われています。パンケトウが下流にある沼でペンケトウが上流にある沼という意味ですが、位置的にパンケトウが上にあるため逆の説明をしている観光サイトがあります。双岳台も双湖台もこの頃は観光バスが群れをなして立ち寄っていてレストハウスもありましたが、今では定期バス以外は素通りです。そうなるよなぁ〜の風景です。 f:id:himetaka2018:20210624233723j:image阿寒湖畔から観光船でチュウルイ島に渡ってマリモを見ました(マリモ展示観察センターで撮影)。思っていた大きさの5倍ぐらいあって驚きました。 この後北見バスで北見相生駅に移動しました。f:id:himetaka2018:20210624233749j:image単線ホームしかない駅でしたが、駅舎は立派でした。 ここから相生線730Dに乗って美幌で石北本線1529レに乗り継いで時間調整と座席の確保を兼ねて網走まで戻ります。f:id:himetaka2018:20210624233814j:image730Dは標準色のキハ22単行で、乗車した34号機はかなりくたびれていました。この相生線も1985年4月1日に廃止されてしまいました。
阿寒バス 美幌駅07:30→阿寒湖畔12:45
阿寒湖遊覧船 阿寒湖畔13:00→14:25
北見バス 阿寒湖畔16:00→北見相生駅16:25
相生線730D 北見相生17:28→美幌18:25
石北本線1529レ 美幌18:39→網走19:36

またまた宿がわりの急行「大雪10号」で夜を明かし、そのまま旭川で降りると早すぎるために一度岩見沢まで行ってから旭川に戻るという方法で時間調整をしました。 f:id:himetaka2018:20210624235312j:image旭川駅から旭川電気軌道の定期バスで天人峡へ行き、羽衣の滝を見物しました。この時は時間がなくて行けませんでしたが、ここから1時間以上歩いたところに「東洋のナイアガラ」と呼ばれている敷島の滝があります。 f:id:himetaka2018:20210625001038j:image結婚後に滝の好きな嫁と見に行きましたが、思っていたものとは全く違っていて(羽衣の滝が雄大なだけにスケール感が圧倒的に乏しい)、ガッカリ感がハンパではなかったです。ただ数年前の崖崩れで現在も入口付近が通行止めになっていて見ることは出来ないそうですし、今では旭岳の方が観光のメインになっているようです。f:id:himetaka2018:20210703142106j:image旭川に戻って、キハ56系急行「大雪3号」を捕まえて上川に向かいます。ところが急行「大雪3号」は遅れていると聞かされ、その遅延時間が上川駅での乗継時間よりも多かったため、旭川→上川の47分間は気が気でなかったことや上川駅で乗り継ぐバスを見つけた時の安堵感などが思い出されます。この急行「大雪3号」は札幌を出ると函館本線石北本線釧網本線を経由して延々9時間30分かけて釧路に到着します。f:id:himetaka2018:20210703143759j:image安心したのか層雲峡へ行く道北バスの中からよーわからん岩や山の写真をいっぱい撮っていました。 層雲峡入口のバス停近くにあった店でレンタサイクルを借りて大函までの景勝地を見に行きました。f:id:himetaka2018:20210625001227j:image最初に出てくるのが流星の滝で、現在では行き止まりの駐車場になっていますが、当時はこれが国道39号線で走っているバスの中からでも滝を見ることができました。f:id:himetaka2018:20210701133227j:imageその先も国道が断崖絶壁の間を縫うように走っていて実に壮観な風景でした。f:id:himetaka2018:20210701133426j:imageこの辺りが8年後の1987年6月9日に「層雲峡小函天城岩崩落災害」が起こった場所で、国道とこの絶壁の間に石狩川が流れているのですが崩落した岩石は川も国道も埋め尽くして3名が亡くなりました。f:id:himetaka2018:20210701135117j:imageその後、最も危ない小函付近にトンネルを掘って使われなくなった旧国道が小函遊歩道になりました。写真は1989年6月25日に撮った小函遊歩道と神削壁で、近くには綿糸の滝もありました。f:id:himetaka2018:20210701140120j:image最後に大函があり、現在では駐車場のある南東側からしか見学出来ませんが、当時は北西の旧大函橋からも見ることが出来ました。f:id:himetaka2018:20210625124850j:image写真(出典不明)は旧大函橋側から見た大函で、国道39号線の旧道と駐車場に抜ける旧大函トンネルが見えています。残念ながら1998年頃に神削壁で落石が頻発して旧国道39号線(小函遊歩道)が全面的に立入禁止となり、現在ではこれらの風光明媚な場所は一切見ることが出来なくなりました。f:id:himetaka2018:20210702090706j:image同じ様な理由で知床半島最深部にある「知床大橋」も、2005年の世界遺産登録で道路の整備が出来なくなって行くことが出来なくなりましたね。原生林の中に悠然と存在する姿は感動ものでした。f:id:himetaka2018:20210702090738j:image写真は2枚とも1989年7月2日に新婚旅行で訪れた時のものです。この知床大橋は1987年から何回もアタックしていますが、ここまでの道路がすぐに崩落するために到達出来たのはこの時だけでした。
急行「大雪10号」網走20:45→岩見沢05:27
函館本線821レ 岩見沢06:19→旭川08:16
旭川電気軌道 旭川駅08:30→天人峡09:39
旭川電気軌道 天人峡10:20→旭川駅11:45
急行「大雪3号」旭川12:59→上川13:46 遅延
道北バス 上川駅13:55→層雲峡14:30 遅延
f:id:himetaka2018:20210624235437j:image層雲峡から往路と同じ道北バスで上川駅に戻り、キハ40x2両編成の上川発旭川行546D(1979年8月30日に旭川駅で撮影)で旭川へ、旭川から道内唯一の電車特急である「いしかり14号」で札幌に向かいました。f:id:himetaka2018:20210625000019j:image乗った車両は札幌駅で撮った写真にある通り485系1500番台のモノクラス6連で、激寒の北海道には対応出来ずに1年後の6月には781系に置き換わってしまい、さらにその4ヶ月後の10月には「ライラック」に改称されて名称も無くなってしまいました。
道北バス 層雲峡17:05→上川駅17:40
函館本線546D 上川18:09→旭川19:38
特急「いしかり14号」旭川20:00→札幌21:43
あとは帰るだけです。室蘭本線経由の急行「すずらん6号」で函館に行き、青函連絡船と急行「きたぐに」を乗り継いで大阪に戻ります。疲れていたのか写真は一枚も撮っていませんでした。
急行「すずらん6号」札幌23:15→函館06:10
青函連絡船26便 函館07:10→青森11:00
急行「きたぐに」青森12:55→大阪08:27
京阪神快速1739M 大阪08:51→姫路10:17
姫新線837D 姫路10:20→播磨高岡10:25
これで振り返りは終わりです。f:id:himetaka2018:20210703175538j:image特急「いしかり」はBトレ/Nとも整備完了、急行「大雪」はNで整備予定です………頑張ろうっと!

 

以上

1979年8月の北海道旅行 前半

家を整理して出てきた写真や記録から検証している過去旅ですが、小学5年生の九州/中学2年生の北海道に続いて大学生時代に弟と二人で行った北海道を検証します。1979年〜1982年の夏休みに北海道へ3回と東北に1回行った事は覚えていますが、学生時代の旅行として記憶がひとまとめになってしまい、永らく「いつ・どこにいった」のかわからなくなっていました。f:id:himetaka2018:20210531200029j:imageところが2020年の正月に1979年8月の旅程の記録を発見し、1979年に北海道のどこへ行ったかが明らかになりました。f:id:himetaka2018:20210531200244j:imageまた今回の大規模整理中に1980年8月に乗車した急行「八甲田59号」の切符が出てきました。いろいろと驚きと謎が残るシロモノですが、その辺りは後に検証するとして1980年は東北に、そして残りの1981年と1982年は北海道に行ったことが確定しました。更に整理を進めるうち1979年と1981年のネガシートも出てきたので全部プリントし直してみました。残念ながら1971年のブローニーフィルムと違って35mmカラーネガフィルムの劣化はかなり進んでいるようです。

今回は旅程がはっきりしている1979年8月の旅行を振り返ります。f:id:himetaka2018:20210625004535j:image1979年8月28日に出発していますが、姫新線播磨高岡から大阪までは記載がありません。姫新線の欄にキハ20+キハ20と書いてあるので播磨新宮か上月発の区間列車と推察、当時の時刻表から播磨高岡17:14発の上月発姫路行862Dが該当すると思われ、姫路で17:43発の網干米原行846Mに乗り換えると大阪に19:24着です。この846Mは網干米原行のグリーン車非連結編成だったので網干区所属車と思われます。大阪駅で「きたぐに」の発車まで3時間近くありますが、862Dより後に到着する姫新線の列車は全て客車列車であること、急行「きたぐに」は3号車(自由席)に乗車したと記載があり席取りのために並んだと考えられることから、3時間という接続時間は長くないと思われます。この頃はまだ鉄道輸送がメインだったため、長距離急行は通常期でも1時間(多客時は4-5時間)は並ぶのが当たり前でした。
この急行「きたぐに」は7種類の機関車が牽引します。f:id:himetaka2018:20210616202347j:imageまず大阪→米原間は米原機関区のEF58です(大阪駅で撮影)。この時は原形小窓機のEF58 79号機でしたが、この写真では79号機の特徴である米原区特有のワイパーカバーも増設されたヘッドマーク取付座もP形特有のにぎやかな前端バリもわかり難いです。f:id:himetaka2018:20210629100223j:image米原で同じ米原機関区のDE10に交代します。SG非搭載の500番台で放熱器上部に撒水機構のない初期型の517号機です(米原駅で撮影)。SGがないので当然暖房は入りませんが、たったの6分間なので必要ないという事だったのでしょうか。この中継は北陸本線坂田-田村間のデッドセクションを、直流電気機関車と交流電気機関車だけで乗り越えるための手段で、交直流電気機関車であるEF81が投入される1983年まで続きました。f:id:himetaka2018:20210629100257j:image田村で敦賀第二機関区所属のEF70に交代します。1974年の湖西線開業を機にそれまで金沢以北で運用されていたEF81が南進したため、旅行に行った前年の10月に1次型は全滅しており、この2次型も風前の灯火状態でした。f:id:himetaka2018:20210629100328j:image富山で富山第二機関区所属のEF81に交代します。正面通風孔付き・内バメ式標識灯・切文字ナンバープレートの初期型である5号機です。ここから秋田までEF81が牽引しますが、寝台車を切り離す新潟で坂田区所属機と替わるようです。
この後秋田でED75 700番台と交代しましたが、なぜか写真はありません。青森に向かう途中に矢立峠があり、非電化時代に補機付きで登っていた旧線跡らしきものをあちこちでみかけた気がします。
青森駅では連絡船に乗ったことのある方なら誰でも経験している「連絡船ダッシュ」して青函連絡船の二等椅子席(自由席)に乗り、函館駅でもダッシュして急行「すずらん5号」の自由席を確保しました。ただ流石に夏休み終盤で乗車率は20〜30%だったような気がします。この時期既に暖房が入っており、二重窓の存在を知らない他の旅行客の分まで二重窓を降した覚えがあります。
なお急行「すずらん5・6号」の編成は以下で、5号車が普通車の指定席、4号車がグリーン車の指定席でした。
札幌←DD51+⑨スハフ44+⑧スハ45+⑦スハ45+⑥スハ45+❺スハ45+❹スロ54+③オロネ10+②スハネ16+①オハネフ12→函館
姫新線862D 播磨高岡17:14→姫路17:20
京阪神快速846M 姫路17:43→大阪19:24
急行「きたぐに」大阪22:10→青森17:10
青函連絡船27便 青森19:25→函館23:15
急行「すずらん5号」函館23:40→札幌06:08

札幌でキハ82系特急「オホーツク」に乗り換えました。当時渡道は連絡船がメインだったため特急は函館発着が基本でしたが、「オホーツク」は唯一函館に行かない特急列車でした。この頃はキハ181系以外の全ての気動車のエンジンがDMH17系だった時代で、何処へ行っても何に乗ってもDMH17サウンドに揺られたものでした。f:id:himetaka2018:20210616210146j:image遠軽で網走発函館行特急「おおとり」と交替します。どちらも1日1往復の選ばれし特急列車ですが、特急列車大衆化が進みいずれも1978年10月改正から自由席が設定されました。なお「オホーツク」は札幌運転区(札サウ)の7両編成で「おおとり」は函館区(函ハコ)所属の7両編成で運行されていました。f:id:himetaka2018:20210616210222j:image遠軽で「オホーツク」から名寄線の628Dに乗り換えます(遠軽駅に停車中の628D)。キハ22標準色+首都圏色の2両編成で1両は名寄本線を3時間43分走って終点名寄まで行き、もう1両は興部で別れて興浜南線の雄武まで行きます。f:id:himetaka2018:20210616210430j:image中湧別で628Dを降り、湧網線の網走行925Dに乗り換えます。こちらはキハ22標準色の単行で終点網走まで2時間以上走りますが、私達の座ったボックス席に他の乗客が座った記憶がないのでガラガラだったのでしょう。f:id:himetaka2018:20210626142442j:image2016年7月12日に中湧別駅跡を訪れており、この写真中央に写っている車掌車のホームを挟んで向こう側の線路にかつてキハ22が停車していました。f:id:himetaka2018:20210624122443j:image計呂地付近を走行中の揺れる車内から200mm x2の望遠でサロマ湖の龍宮台(砂州の開口部)を狙いました。f:id:himetaka2018:20210624122558j:image写真を拡大するとかろうじて灯台が写っているのが分かります。f:id:himetaka2018:20210620171213j:imageこの灯台は1989年6月の新婚旅行で見に行きました。まだ展望台もなく本当の端っこまで車で行けましたが、な〜んもない砂浜に灯台がポツンと立っていました。f:id:himetaka2018:20210624155200j:image対岸も見えた(写真下側が西の砂州の東端、写真中央が東側の砂州の西端)のでわざわざグルッと回って行ってみましたが、反対側は突端まで行くことが出来ませんでした。f:id:himetaka2018:20210626143605j:image37年後のサロマ湖です(2016年7月12日にサロマ湖展望台から撮影)。残念ながら雲に隠れて開口部や灯台を見ることは出来ませんでした。f:id:himetaka2018:20210626152148j:imageなお計呂地駅跡も保存されています(2016年7月12日に撮影)。f:id:himetaka2018:20210617123850j:image当時は湧網線の線路と能取湖の間に遮るものはなく一面サンゴソウが広がっているのが見えました。写真では湖沿いにしかサンゴソウは見えていませんが、実際には「辺り一面」という感じで無茶苦茶感動しました。残念ながら湧網線は1987年3月20日に、名寄本線も1989年5月1日に廃止されてしまい、サンゴソウも湖岸の開発によってごく一部の地域でしか見ることが出来なくなってしまいました。f:id:himetaka2018:20210617124840j:image網走では定期観光バスで天都山・網走刑務所・能取岬を巡りました。天都山に登る道から能取湖(写真の上側)や網走湖(同左側)が望め、写真右側には網走刑務所の農場(現在の大曲湖畔園地)も見えています。f:id:himetaka2018:20210617131948j:image当時はまだ博物館網走監獄ができる前で、実物の網走刑務所の門だけを見せてくれました(網走市観光協会のHPから転載)。f:id:himetaka2018:20210617131522j:image写真右端真中辺り山の麓に今は網走監獄に移設された有名な「五翼放射状平屋舎房」が微かに見えます。今もそうですが網走の駅前は何にもないため、駅東方に位置する繁華街まで歩いて行って食事をした事を覚えています。
特急「オホーツク」札幌07:00→遠軽10:47
名寄本線628D 遠軽11:07→中湧別11:29
湧網線925D 中湧別11:40→網走13:57
阿寒バス 能取美岬早回りコース 網走駅発着15:35-18:05
網走から札幌行寝台付客車急行「大雪10号」で上川まで行き、ここで交替する下り「大雪9号」に乗り換えて美幌まで戻って来ました。勝手に「上川ターン」と呼んでいた列車を宿代わりにする方法ですが、若いからこそ出来たワザだと思います。
急行「大雪9号」網走20:45→上川02:08
急行「大雪10号」上川02:18→美幌06:58

長くなるので後半に続きます。f:id:himetaka2018:20210628103858j:imageなお、急行「きたぐに」はNゲージ/Bトレで整備予定、特急「オホーツク」はNゲージで整備中(放置?)です。

 

以上

今さらのBトレ 1971年8月の113系京阪神快速電車② サロ112の完成

f:id:himetaka2018:20210615110446j:image1971年8月の北海道旅行で姫路ー新大阪間を乗車した113系京阪神快速電車の再現の続きです(写真は1971年2月10日の姫路駅を出発する京阪新快速の113系)。f:id:himetaka2018:20210615110505j:image前回押込み式ベンチレーターを撤去した跡の穴を埋めたプラ棒がどれも固定されてなかったことが判明したためもう一度プラ用接着剤で接着しました。f:id:himetaka2018:20210615002353j:image固着した事を確認してから再度光硬化パテを塗り、Amazonでテキトーに選んで購入したブラックライトで硬化させ、ヤスリでツライチにしてサーフェサーを吹きました。f:id:himetaka2018:20210614231849j:image…まだ跡が残っていますね、パテの盛り方に工夫がいるんでしょうか。なんかヤスリで磨いた時はツルツルですが、サフ吹くと盛り上がってくる気がします。なんでやろ?

気を取り直して、運転士席上にある信号炎管を交換します。f:id:himetaka2018:20210614194849j:imageモールドをニッパーで切り飛ばしてφ0.7mmの孔を開け、Z04-0707信号炎管 灰(クモハ115)を差し込みます。f:id:himetaka2018:20210614195434j:imageまた米原方面先頭車はジャンパー栓受けのモールドの上にφ0.6mmの孔を開けてα−modelのKE58ジャンパー栓受けを差込み、緑2号と艶消しの黒を筆塗りしたあと裏から瞬間接着剤で止めてからスカートに当たらないようにツライチに削ります。113系のジャンパー栓ってKE76の3連と思い込んでいましたが、0番台/1000番台車はKE58x2で登場、1000'番台車はKE76x2+KE70に、700番台からKE76x3になっています。f:id:himetaka2018:20210614213702j:imageこのジャンパー栓モールドは意外と削り難い形状をしているため、ウデもないのに無理して挑戦して改悪するというサロ112の二の舞を踏まないためにも、姫路方の先頭車はモールドをそのままにしています(…言い訳です)。
その塗装に挑戦して苦戦しているグリーン車です。f:id:himetaka2018:20210609192907j:imageちょっと雑ですが、塗り分けたらアチコチはみ出た簡易運転台側の妻板を修正しました。残るはグリーン帯と貫通扉の塗装です。f:id:himetaka2018:20210610084648j:imageドア部を2.5mm幅のテープで、帯部分を6mm幅のテープでマスキングし、GM鉄道カラーには淡緑6号がないため代用として紹介(?)されている伊豆急ペールブルー(ブルーC)を吹きます。f:id:himetaka2018:20210611214628j:imageう〜ん、微妙にズレている気もしますが、やり直す気力がないのでこれでヨシとします。なお帯の幅はスケール通りの1mmとしましたが、ネットで言われているような存在感の薄さは写真で見る限りは感じません。f:id:himetaka2018:20210611214949j:imageまた貫通扉にはGM鉄道カラーSP5クリーム色1号(スカ色)を吹きました。薄茶色がなかったので代用したのですが実車のイメージに比べてちょっとクリームが強いようです、という以前に今回も塗り分け部がボロボロです。f:id:himetaka2018:20210614185739j:image簡易運転台側の妻板は筆塗りで修正しました。写真では貫通幌枠の右側が黄かん色に見えますが、実際には緑2号で塗ってあります。f:id:himetaka2018:20210617113806j:image反対側の妻板ははみ出た塗料をシンナーで拭き取るという荒技を試みたところ、見事に失敗して元塗装まで剥げてしまいました。そこで物は試しで先に扉色のクリーム1号を吹いてマスキングし、その上からGM鉄道カラーSP13緑2号を吹きました。f:id:himetaka2018:20210620215838j:image左右は綺麗に出ましたが上下はグダグダになったので塗装色の順番は関係ないようです。f:id:himetaka2018:20210620221332j:image前回にも記載した通り非冷房の屋根は115系スカ色4両セットのパンタ無しの屋根板を使い、前照灯部を嵌め込む切り欠きを現物合わせで切り取りますがサロ481と違って前照灯がかなり大きく、テキトーに削ったら隙間が出来てしまいました。f:id:himetaka2018:20210621151858j:image毎回塗装で苦労しているトイレと洗面所の窓ですが、今回は塗装ではなく165系で試してみたラベルシートを貼り付けました。シートの切り出しはかなり細かい作業になりますが、塗装するよりずぅ〜っと楽チンです。ただ経年変化がちょっと心配で、すぐ剥がれそうな気がします。f:id:himetaka2018:20210621152627j:imageHGシャシ用のブロックを使って各パーツを再度組立てたら車体は完成です。f:id:himetaka2018:20210621152705j:image下回りは余剰のHGシャシを使い、153系新快速を6両編成で再現するので余るクハ153新快速色の台車レリーフを走行台車Tに取り付けます。カプラーは普通車と一緒に11-104カトーカプラーNJPA黒に換装するつもりです。f:id:himetaka2018:20210621152849j:imageさぁ、グロベン屋根に再々度挑戦ですぅ……いつまでも同じことをやっていますが、その③に続きます。

 

以上