ひめたか鉄道2018

会社を定年退職して嘱託になり時間ができたことと、会社行事で見たアニメの銀河鉄道に出てくる車両に触発されて、これまで時間に追われてほとんど出来なかった鉄道模型を、ちょっと真面目かつ気楽に再開することにしました。

【補足】1971年8月の北海道旅行〜蒸気の居た姫路第一機関区の様子も

1971年8月にC62を見に行った北海道旅行のブローニーフィルムのプリントが上がってきたので、追加しておきます。f:id:himetaka2018:20210612015318j:imageまずは五稜郭機関区で撮ったC62 3号機です。当たり前のことですが50年前のプリントとは発色が違います。f:id:himetaka2018:20210612015511j:imageD52 202号機です。f:id:himetaka2018:20210612015749j:image江差線を走るC58です。元サイズでは撮影対象が全くわからなかったので、少し大きくしてみました。f:id:himetaka2018:20210613175430j:image撮ったはず、と思っていたキハ82系特急「北斗2号」と並んだ写真も出てきました。f:id:himetaka2018:20210612020105j:imageさらに急行「ニセコ3号」の発車シーンもありました。何故かこれだけ白黒になっています。

1971年2月10日の姫路第一機関区の写真も出てきたので、少し紹介しておきます。f:id:himetaka2018:20210612020654j:image構内の様子です。この左手奥に扇庫があります。前にも書きましたが姫新線(姫路ー上月間の区間列車)のC11が無煙化された直後で、真新しいDE10が見えます。f:id:himetaka2018:20210612021445j:image津山・新見発着の長距離列車はまだ津山機関区のC58が牽引していましたが、1ヶ月半後の3月24日に無煙化されてしまいました。f:id:himetaka2018:20210612020953j:image並びにはなってませんが、姫新線用のDE10と播但線用のC11です。当時はディーゼル機関車って邪魔者扱いの極みで、撮影対象にはなってないのでこんな構図になっています。f:id:himetaka2018:20210612021210j:image播但線のC11は姫路ー寺前間の区間列車用で、庫内にも沢山休んでいました。同じ姫路第一機関区所属のC11なのになぜ姫新線用のみ無煙化されたのか不思議に思っていましたが、これだけのC11を置き換えるだけのDE10が用意できなかったのかもしれません。f:id:himetaka2018:20210612021843j:image姫路ー和田山間の全線を走る列車は豊岡機関区のC57が牽引して生野峠を越えていました。f:id:himetaka2018:20210612022038j:imageこの日はスキー臨の運転に伴う初めての播但線C57三重連列車が運行されました。この後はファンサービスも込みで無煙化される1972年10月まで何回も運転されることになります。f:id:himetaka2018:20210612022157j:image姫路駅構内を撮った写真が出てきました。残念ながら非常に不鮮明ですが、大阪方面に向けて発車して行く113系0番初期車の京阪神快速電車が写っています(手前が大阪方面で右手は播但線気動車)。

最後に、上野駅で見たはずのEF57について追加で調査しました。検証時は到着列車の牽引機を見たのではないかと推察したので、対象となる到着列車を調べてみたところ、15:00から出発の16:18までの間で一本だけありました。16:04着の急行「まつしま52号」ですが、到着番線が6番線となっており、果たして地上ホームの14番線から2階ホームの牽引機が見えたのか疑問が残り、結局わからずじまいでした。

 

以上

 

今さらのBトレ 1971年8月の113系京阪神快速電車①

今年始めから実施している自宅と実家の大規模な整理で出てきた資料や写真を基に、古い時代に行った旅行の行程検証を行なっていますが、検証だけでは面白くないので、久しぶりに1971年8月の北海道旅行で姫路ー新大阪間を乗車した113系京阪神快速電車をBトレで再現しようと思い立ちました。
検証記事で記載した通り、高槻区(大タツ)所属の113系0番台前期車(グロベン仕様)とサロの8両編成(播州赤穂←TcM'MTsTcM'MTc→草津)で、全車非冷房車の湘南色です。
まず普通車両7両です。f:id:himetaka2018:20210518003935j:image4両編成セットシリーズの113系湘南色を使います。f:id:himetaka2018:20210523213710j:imageこのセットは非ユニットサッシの0/1000番台なのですが、冷房改造車でかつ電動車ユニットは押込み式ベンチレーターの屋根板しか付いていません。押込み式ベンチレーターが採用されたのは1968年2月以降(電動ユニットが181〜、先頭車は162/474〜)ですが、1970年の万博輸送で関東にいた0番台初期車が大挙して押し寄せたため、関西ではグローブベンチレーター車が多数派になってしまいました。f:id:himetaka2018:20210606221909j:imageそこで同じ4両セットの115系が初期型でかつ非冷房仕様であるため、これの屋根板を使って非冷房のグローブ型ベンチレーターの屋根を作ります。f:id:himetaka2018:20210609101934j:imageこのセットにはパンタあり/なしの屋根板が中間車毎に2枚ずつ付いているため、持っていた2箱で余剰になるモハ4両分が確保できます。f:id:himetaka2018:20210606221846j:imageまた用途のなかった4両セットの115系スカ色1箱からクハ2両分を転用、スカ色車のパンタ付きは低屋根だけなので使えず、パンタなしの屋根板はサロ用とし、足りないクハ1両分はメルカリでパート11の115系スカ色先頭車を調達しました。f:id:himetaka2018:20210518011733j:imageこの115系非冷房屋根板を使う場合、運転室側に付いている箱型ベンチレーターの位置が異なる(113系はセンター、115系は右にシフトしている)ため、これも撤去する必要があります。当初は写真にあるクハ153の非冷房屋根が使えるかと思ったのですが、全長が113系より微妙に長いため短縮するのは大変なので断念しました。f:id:himetaka2018:20210518011730j:image先ず押込みベンチと箱型ベンチをニッパーで切り取り、開いた穴を成形します。f:id:himetaka2018:20210518021541j:image次にその穴にプラ棒を押し込んで塞いで接着し、パテで隙間を埋めました。中間車も同様に押込みベンチを撤去します。f:id:himetaka2018:20210518021822j:imageなんとなく埋まっている気がするので、グレーのサフを吹いてみました。f:id:himetaka2018:20210523224418j:image結構ヒケていることがわかります。f:id:himetaka2018:20210523224652j:imageそこでパテを変えてみます。上が普通に使っているラッカーパテで、下が今回挑戦する光硬化パテです。数分で硬化するうえ殆どヒケが出ないらいしですが、価格が3倍以上するので躊躇していました。ハケで適当に伸ばしたあと蛍光灯の下で硬化させようとしましたが固まってくれません。10Wの蛍光灯の下30cmではダメなようで、百均のUVライトを探しに行きましたが、どの店も売切れていました。暫く生産していないようです。f:id:himetaka2018:20210606234758j:image仕方が無いので部屋の窓際に置いて太陽光を当てて硬化させ、再度ヤスリをかけてもう一度サーフェサーを吹きます。f:id:himetaka2018:20210607165658j:imageう〜ん…なかなか跡が消えてくれません。再々度パテを塗ってヤスリをかけて…f:id:himetaka2018:20210608215515j:imageあれ?なんか出ている……どうも穴を塞いだプラ棒が接着されていないみたいです。接着剤のつけ方を間違えたのか、はたまたプラモデル用接着剤ではつかないのか?と思いつつコレが理由で跡が消えないのかどうかはわかりませんが、再度接着剤を塗って様子を見、固まったらパテ塗りからやり直します。
続いてグリーン車にかかります。関西地区には1966年10月からサロ153改造のサロ110が、1968年3月からはサロ152改造のサロ112が運用に入っています。検証の時に調べたように、1971年の時点で大タツにはサロ110が6両とサロ112が19両いました。f:id:himetaka2018:20210518023536j:imageBトレ113系用のグリーン車としてサロ110が製品化されています。f:id:himetaka2018:20210516172020j:imageこれはN製品で標準になっている関西には居なかった1200番台ではなく、サロ153から改造された0番台(車掌室とトイレが両端に振分けて配置されている)のため、淡緑帯を塗って屋根を非冷房化するばOKです。
余談ですが先日ヤフオクでサロ153を含む12点がまとめて出品されていました。このサロは実車とは逆にサロ110を塗分変更したもの(なので実車には存在しなかった冷房改造車)でシークレットでした。出品者はご存じなかったのか600円前後で推移していましたが、最後は7,000円になってました、やっぱり……f:id:himetaka2018:20210516172304j:image前述のようにサロ110は関西のグリーン車では少数派のため、また整理している中で出処が怪しいサロ165が出てきたこともあり、ウデも無いのにサロ112の非冷房車を作ることにしました(もちろん後で後悔しました)。このサロ165は2軸シャシの帯なし仕様なので、ベストリピートパート1と思われます。f:id:himetaka2018:20210516174851j:imageサロ112はサロ152を改造したもので外観は同じ、サロ152とサロ165は外観上台車が違う程度なので、このままサロ112になります。近郊型のグリーン車でこのサロ112のみ窓の形状が異なっています。f:id:himetaka2018:20210516175435j:image113系と153系とでは塗り分け位置が異なっていますが、塗り直さなかった車両もあったのでそのままサロ112として使えます(冷房化と塗装変更は関係ないようです)。今回はどっちみち淡緑帯を塗ることと、大タツ車は妻板の回送運転台部分も塗り分けられていたことから113系の塗り分けに変更することにしました(どんどん後悔の度合いが大きくなります)。f:id:himetaka2018:20210606235231j:image車体を丁寧に分解してガラスパーツを壊さないように外します。f:id:himetaka2018:20210607165850j:image側板の窓下の塗り分け線から1mm下にマスキングします。上側は大体この辺…で決めました。f:id:himetaka2018:20210607173354j:imageこの色は隠匿性が低いみたいで、下の緑色が消えるまでかなり吹いてしまいました。f:id:himetaka2018:20210608104825j:imageこれが原因なのか、あるいはマスキングテープの押さえ方が弱かったのかわかりませんが、ラインがビシッと出ずグダグダになりました。あちこちはみ出ている(赤マル部)のでGM鉄道カラーC13緑2号で修正します。f:id:himetaka2018:20210608191934j:image極細筆に薄め液を染み込ませてから塗料を着けてタッチアップすると、思っていたより簡単に「それらしく」直りました。また下地塗装をサボったので元ラインがはっきりわかりますが、帯を引けば目立たなくなると期待しています。ただ全体的に塗膜が弱そうで帯の塗装時に剥がれてしまう可能性が大きいです。しっかり洗ったつもりなんですが…f:id:himetaka2018:20210608105720j:image前述の通り大タツのサロは簡易運転台がある側の妻板も塗り分けてありました。この製品はHゴムが塗装されていますのでこの部分込みでマスキング、貫通扉は色が違うのでここもマスキングして黄かん色を吹きます。f:id:himetaka2018:20210608200903j:image今回もいっぱいはみ出た(赤マル部)のでタッチアップします。
はぁ疲れる…いらん事せなんだらよかった、と後悔しつつ②へ続きます。

 

以上

 

 

1971年8月の北海道旅行〜C62 3号機を見る

自宅と実家の大がかりな整理で出てきた古い資料や写真を使って昔の旅行行程の検証を行っています。最初が1968年8月の九州旅行(熊本城・阿蘇山)、続いて1969年8月の北陸旅行(東尋坊永平寺)、で今回は1971年8月の北海道旅行です。旅行と言ってもこれまでのように家族で風景や建物を見に行った訳ではなく、弟と二人だけで行った人生初の鉄道車両の撮影旅行で、五稜郭機関区を訪問し念願のC62を見てきました。 f:id:himetaka2018:20210512134321j:image大阪から直接青森に行く急行「きたぐに」では函館23:25着になり、中学生にとってはその後の行動が困難になるため断念、午前中に函館に到着出来る東京・上野経由としました。ただこの時期の裏縦貫は半分が非電化で、この非電化区間は風光明媚な旧線をC57・C61・D51等の大型蒸気機関車が大挙して走っていたはずなので、今から思うと勿体ないことをしたものです。また元々の計画では「ニセコ3号」から「利尻」に乗り継いでC62重連とC55も見るつもりでしたが、これも心配性の父親に深夜移動の危険性を指摘されて断念してしまいました。
①当時新幹線は東京-新大阪間のみだったので、姫路から快速電車で新大阪に行った。途中の西明石駅で工事中の新幹線西明石駅の防護壁にいた猫に指鉄砲で「べいん!」とか言って遊んだ覚えがある。
②上野から臨時の夜行急行に乗ったら、当時としては画期的な全車冷房付きの12系客車だったので驚いた。帰りの列車は定期急行の指定券を買っていたが、慌てて時刻表を調べて12系客車使用列車を探して乗変した記憶がある。時刻表には12系客車使用とは記載されていなかったが、寝台やグリーン車が連結されていない全車指定席列車を狙って取った。EF57が牽引していたような気がするので、この列車は「八甲田」と思っていた。
五稜郭駅から五稜郭機関区までは徒歩で往復、暑くて途中の駄菓子屋でジュースを買った記憶がある。機関区事務所で住所と名前を記載してヘルメットを借りたが、私の頭周りが小さいのでメットが固定されず撮影時に邪魔になった。初めて見るC62やD52はただただデッカイという印象だった。五稜郭の駅員さんに姫路から来たと言ったら、「あぁ、シメズね。」と返されて話が通じているのか心配になった。
函館駅に戻ってホームを挟んで並んでいるキハ82系「北斗」とC62牽引「ニセコ」を撮影、「ニセコ」の出発を見送った時に、発車時に鳴らされた汽笛の音の大きさに驚いたことを覚えている。
⑤その後、帰りの青函連絡船を乗換口で待っている時に、函館駅2番ホームに到着した「ニセコ1号」を見た。牽引機はC62 16号機だった。
⑥帰りも目論見通り12系客車の臨時急行に乗った筈であるが、行きほど感動しなかったのか記憶に残っていない。

この旅行で実際に使っていた時刻表が出てきたため、これを使って記憶を検証しました。f:id:himetaka2018:20210528102228j:imageラッキーな事に姫路から帰りの上野着までの乗車列車に印が付けていたため、列車の特定は容易でした。
旅の始まりは姫新線播磨新宮発の客車列車でした。姫新線無煙化は1971年3月24日(姫一のC11は同年の1月中に置き換え)だったので、真新しいDE10が牽引していたはずです。f:id:himetaka2018:20210523162632j:image1971年2月10日の姫路第一機関区の様子で、姫新線用のDE10が見えます。f:id:himetaka2018:20210523164204j:imageこの時はまだ津山機関区のC58は生きていました。なお播但線(=姫路第一機関区)の無煙化は1972年10月1日です。f:id:himetaka2018:20210515163015j:imageまた、京阪神快速電車の113系化は1968年10月(岡山直通車を除く)なので、姫路から新大阪まで乗車したのは113系になります。f:id:himetaka2018:20210523151336j:image当時の状況を正しく知るためにJTBキャンブックスの「111系・113系物語」と鉄道ピクトリアル952(2018年11月)号を参考にして調べました。
まず冷房化の状況ですが、当時は普通車はおろかグリーン車も全て非冷房と思っていました。ところが1970年7月に113系の試作冷房車1編成(TcM'MTsM'MTc)が完成し、1971年夏には全ての新快速用車両が冷房化されたようです。とは言え快速用車両の冷房化は1974年4月〜7月に登場した湖西線用700番台と1977年10月から投入された0'番台になるため、乗車した車両は全て非冷房車で間違いないようです。
なおここに出てくる新快速は、1970年の万博輸送用に大船区(東フナ)から大挙して網干区(大ホシ)に移動した0番代初期車両を使って、万博終了後の1970年10月1日からスカ色のまま京都ー西明石間で運転を開始したもので、1972年3月15日のダイヤ改正で153系に交代後は鳳区(天オト)に移って阪和線の新快速になりました。
次にグリーン車ですが、1971年7月の時点で高槻(大タツ)にはサロ153改造のサロ110が6両と、サロ152改造のサロ112が19両在籍しており、上記試作冷房車のサロ112 14以外は全て非冷房でした。
編成の構成はグリーン車付きが中間部にグリーン車とサハ代用のクハ111 をつないだ8両編成で、グリーン車無しはそれから単純にサロを抜いた7両編成でした。
姫路←Tc1M'MTsTcM'MTc→米原
気になるのは、①の記憶にある新幹線西明石駅工事用壁にいる猫を見たことで、距離的に在来線西明石駅の最も北にある1番線に止まったと思っていたのですが、このホームは外側線(列車線)で須磨駅にはホームがないので停車できません。時刻表にはこの電車の須磨の発着時刻が記載されていることから、ホームを挟んだ電車線である3番線に止まった電車から見たことになります。実際に西明石駅へ見に行くと3番線の姫路寄りのホームであれば新幹線駅はかなり近いことが確認され、ここなら新幹線駅の防護壁に猫が居てもわかると思いました。なおこの電車は西明石に5分間停車していますので、猫と戯れる時間は充分にあったことになります。
初めて乗った新幹線は、転換クロスシートだったことぐらいしか記憶に残っていません。興味なかったんですねぇ。
②の記憶にある列車の切符も出てきました。f:id:himetaka2018:20210512161546j:image時刻表への記載にもあった通り乗ったのは常磐線経由の「十和田53号」で、牽引機はEF80です。多分ですが、上野の構造が複雑で地上ホームに行くのに時間がかかってしまい、牽引機を見に行くヒマがなくなってしまった事、その時に到着した列車の牽引機がEF57だったことで記憶が混じったのではないかと推察します。切符には4号車とあるのでかなり後ろだったことがわかります(何故か東北・常磐線は上り先頭が1号車)。また上野駅が複雑なため弁当を探すのも大変だったのですが、選んで買った100円の駅弁がとっても不味かったことはハッキリ覚えています。この切符が見つかったことで乗車したのが1971年8月23日、この旅行が8/23〜25であることも判明しました。f:id:himetaka2018:20210523185259j:imageさてこの12系客車ですが、波動輸送用と旧型客車の置き換えを目的に製造された冷房と自動扉を備えた新世代の客車で、冷暖房用電源を積んだ事により牽引機を選ばなくなったことが大きな特徴です(多客期には暇になる貨物機で運用できる)。1969年に試作車28両が製造されて宮原区(大ミハ)に配属、1970年には300両が追加され、初期型478両が1971年5月末までに出場しています。f:id:himetaka2018:20210523174513j:image初期の臨時列車ということもあってネットでは編成表を探し当てることが出来ませんでした。鉄道ピクトリアル757(2005年2月)号によると初期の頃はスハフ・オハx4・オハフの6両編成が基本とされており、編成が短いと感じた記憶はないので基本編成2本の12両で構成されていたのではないかと思われます。
f:id:himetaka2018:20210523165039j:image③の記憶にある五稜郭機関区で撮影したC62 3[築]です。f:id:himetaka2018:20210523165259j:image50年前のプリントなので状態は良くありません。まぁ腕もないので構図も無茶苦茶ですが…f:id:himetaka2018:20210523165707j:imageこちらはD52 202[五]で、キャブは密閉式に改造されていません。f:id:himetaka2018:20210529102700j:imageDC改造のビフォーアフター、これはD52 138号機です。f:id:himetaka2018:20210529102455j:imageこの頃は転車台も普通に撮影出来ました。f:id:himetaka2018:20210529103103j:image江差線用のC58 126号機が出区して行きました。f:id:himetaka2018:20210523171137j:image遠方の江差線を走るC58牽引の貨物列車で、撮っている時は認識していても後から写真をみると何を撮ったのかわかりませんでした。f:id:himetaka2018:20210529103604j:imageDE10が見えますが1968年10月に五稜郭操車場の入換用9600を置き換えた奴です。

この時の使用した撮影機材は、この為に買ってもらった旧ソビエトKMZ製のMeproZenit E(MEPRO-KOMINER 55mmF2.8付)と、YashicaFLEX(型式不明)、およびオリンパスペンEEです。f:id:himetaka2018:20210523155259j:imageヤシカは父親が使っていた1953-1955年頃製の6x6判二眼レフで、シャッター速度は1/200までありましたがファインダーの像が逆転しているので動体撮影は難しかったです。f:id:himetaka2018:20210523160654j:imageオリンパスペンはベストセラーのハーフカメラで、1968年の九州旅行でも使っていますが、シャッター速度が1/60固定なのでブレブレ写真の乱造になりました。f:id:himetaka2018:20210523155157j:imageメプロゼニットはオリンパスペンと同価格という超破格値の一眼レフで、外光式露出計と1/500までのシャッター速度を備えたM42スクリューマウントのレンズ交換式一眼レフでしたが、さすが旧ソビエト製で3年使ったらフィルムが巻き取れなくなりました。f:id:himetaka2018:20210528104944j:image後継機は同じM42マウントのPENTAX SP-Fにしましたが、ひょっとしたら3年間の使用期間中にテレプラスくらいは買っており、継続利用するためにマウントを合わせたのかもしれません。f:id:himetaka2018:20210528110906j:imageこのSP-Fはその後21年間使い続けて、1995年8月6日に「C62ニセコ号」をけん引するC62 3号機を雨の中で撮影したのが最後となりました(蘭島-塩谷間)。
f:id:himetaka2018:20210529101902j:image④で写した函館駅2番線ホームで出発を待つC62 3号機牽引の函館本線経由札幌行き急行「ニセコ3号」で、何故かキハ82系室蘭本線経由札幌行き特急「北斗2号」と並んでいる写真はありませんでした(この写真の左側にいます)。

以上の写真で綺麗に発色しているものは、オリンパスペンEEで撮影したフィルムを50年後にプリントしなおした写真で、それ以外は50年前にプリントした写真です。
⑤の補足ですが、絶大な人気のあったC62 2号機は、調子が良くないので補機で使いたいことと、重連の前補で見たいファンへのサービス的な運用側の配慮があって、最後は山線区間で前補機として長万部折り返しで先頭に立ち続けたと言われています。
⑥については、行きの上野駅で買って失敗だった弁当に懲りて、青森駅では吟味しまくった末にちょっと価格が高いけど150円の「鳥そぼろ弁当」を、駅のホームに大八車で商品を並べていた店(?)で買ったと思っており、とても美味しかった記憶が残っています。
姫新線1828レ 播磨高岡09:34→姫路09:41
  播磨新宮発姫路行
京阪神快速762M 姫路10:04→新大阪11:45
  播州赤穂草津グリーン車
特急「ひかり38号」新大阪12:05→東京15:15
急行「十和田53号」上野16:18→青森04:29
青函連絡船33便 青森05:05→函館08:55
☆急行「ニセコ3号」函館14:25発札幌行
☆特急「北斗2号」函館14:20発札幌行
青函連絡船04便 函館17:00→青森20:50
急行「十和田54号」青森21:20→上野09:43
特急「ひかり27号」東京10:20→新大阪13:30
京阪神快速777M 新大阪13:42→姫路15:17
  米原発姫路行 グリーン車
姫新線823レ 姫路15:20→播磨高岡15:26
  姫路発津山行

☆は見学しただけの列車です。帰りの東海道新幹線以降は乗車列車が若干怪しいですが、これで検証は終了です。

この時撮影した50年前のフィルム(35mmx19本、6x6のブローニーx3本)が出てきたのでプリントしました。カメラのキタムラに持って行ったらブローニーは出来ませんと言われ、ビッグカメラに持っていったら納期1週間でブローニーも引き受けてもらいましたが「プリントはL版で良いですか?上下切れますけど」ってお前はどシロートか!!どっちの店もHPにはブローニーも手焼きも可能って書いてあるんですけど……高くてもいいから写真のことをよく知っている写真屋さんを探さんといけません。結局ブローニーはこの記事に間に合わなかったので、出来が良ければ別記事で載せたいと思います。

この時乗車した113系京阪神快速と12系急行「十和田53号」はBトレとNゲージで、函館駅で見た特急「北斗」と急行「ニセコ3号」はNゲージで再現予定です。

いつになることやら…

 

以上

1968年8月の九州旅行〜瀬野八後補機の謎 (1969年8月の東尋坊・永平寺も)

2021年に入ってから模型そっちのけで自宅と実家の整理に大半の時間を割くことになり、色々と古い写真や史料が出て来ました(これのセイで片付けがなかなか進みません)。そこで還暦を過ぎて急速に衰えてきた記憶が完全に錆びつかないうちに昔の旅行の行程を確認する事にしました。f:id:himetaka2018:20210509130025j:image記憶にある最初の家族旅行は、1968年8月20日〜22日に行った熊本・阿蘇山で、残念ながら列車等は一切撮影していません。上の写真は乗車した電車急行から撮った唯一のもので、ボケていて食堂車の位置がわからないうえ色彩が失われているので475系か153系か判別できませんが、先頭か最後尾あたりに乗っていたみたいです。f:id:himetaka2018:20210509112914j:image現時点で断片的に残っている記憶(下記①〜⑩)を基に交通公社の国鉄監修時刻表1968年9月号と照らし合わせるつもりでした。f:id:himetaka2018:20210515161858j:imageヨンサントオの前月号なので買ってある筈ですが見つけることが出来ず、仕方がないので手元にある1967年9月号を使って検証しました。この時刻表から実際に旅行に行くまでの間の1967年10月にダイヤ改正があり、乗車した「しらぬい」はこのダイヤ改正からの運行で、また「ひまわり」や「火の山」も本数等に変化があったので、これらはネットで1964年4月現在のものを探してきました。f:id:himetaka2018:20210425212447j:imageちなみに1967年10月号をネットで調べてみると五千円近い価格が付いていました。結構需要があるんですねぇ〜有名なヨンサントオは電子版が復刻されていて1,466円で買えます。f:id:himetaka2018:20210425213613j:image【一日目】
①始発の姫新線(気動車)に乗ったらしく、行商のおばさんが数名いた。
②姫路から乗った電車は超満員で、どの辺りかで親に呼ばれて移動したら座ることが出来た。
③乗った電車は「しらぬい」だった。

先ず③の記憶から急行「しらぬい」を調べました。この列車は1967年10月に「有明」を改称して1968年9月末まで運行されたので乗ったのは間違いなさそうですが、岡山発熊本行のため姫路から岡山まで別の列車に乗る必要があります。時間的に合致するのは姫路発06:25の1431Mで、この乗り換えが②の記憶になったのではないかと考えました。ただ1431Mは姫路始発で、かつ発車時間の20分以上前に到着しているのになぜ座れなかったのかは疑問です。f:id:himetaka2018:20210509134239j:image車掌さんに頼んで撮らしてもらったのか、関門トンネル門司口の写真が残っていました。
熊本以南が電化されていなかったこの時期の熊本駅にはC60やC61がゴロゴロいた筈で、一枚も写真がないのは今から思うと勿体ない話です。
姫新線852D 播磨高岡05:57→姫路06:04
山陽本線1431M 姫路06:25→岡山08:03
急行「しらぬい」岡山08:30→熊本17:38

【二日目】
④熊本城から水前寺公園に行った。ほとんど覚えてないが、何故か親父が怒って途中からいなくなったことだけが鮮明に残っている。
⑤母親から乗っている列車の名称「ひまわり」が、花の名前ではなく循環列車の意味であると聞いた。
阿蘇山で火口まで行ってマウントカーを見た。また山を下りるバスがなく、白タクに乗った。
⑦別府には食事付きの宿に泊まるにしては遅い時間に着いた。

④の記憶から午前中に熊本城と水前寺公園を見て、昼から移動して阿蘇山へ行ったと思われます。これに該当するのは水前寺発12:07の急行「第1火の山」と14:34の急行「第2ひまわり」ですが、⑤の記憶から「第2ひまわり」に乗ったとすると阿蘇に15:46着です。f:id:himetaka2018:20210509133148j:image⑥の記憶にある火口まで行くには阿蘇駅からバスとロープウェイを乗り継ぎ、約1時間かけて火口西に行く必要がありますが、最終の別府行急行「第2火の山」は阿蘇を17:49発なのでちょっとギリギリかな?という気がします。ひょっとしたら白タクに乗ったのは、バスでは列車に間に合わなかったからかもしれませんね。この「第2火の山」の別府到着は20:00で⑦の記憶に合致します。f:id:himetaka2018:20210509133110j:imageなお、マウントカーとは火口西と火口東を専用道路で結んでいた車両で、前1軸・後輪2軸の全輪駆動とし、火山弾対策のため開口部を小さくした窓ガラスに防護カバーを取り付けていました。
急行「第2ひまわり」水前寺14:34→阿蘇15:46
急行「第2火の山」阿蘇17:49→別府20:00

【三日目】
門司港駅からバスで関門トンネル人道入口へ行く途中、道路脇にあったトンネルが強く記憶に残っている。
関門トンネル人道出口から下関駅までは路面電車に乗った。
⑩下関から姫路まで乗車したのは「関門」で、セノハチでデッキ付きの電気機関車の後押しと走行中の解放を見た。

⑧の記憶にあるトンネルは市営田野浦公共臨港鉄道の和布刈トンネルで、平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線としてトンネルと共に現存しています。(↓関門トンネル人道門司口)f:id:himetaka2018:20210509134528j:image⑨の記憶にある路面電車は山陽電気軌道(現サンデン交通)で、位置的に御裳川(電停)から下関駅まで乗っています。(↓関門トンネル人道下関側口から対岸を望む)f:id:himetaka2018:20210509134208j:imageその後に乗った下関から姫路まで直通していた列車は「関門」と「つくし」のみで、⑩の記憶から下関12:20発の急行「第2関門」を利用したものと思われます(「つくし」の場合は475系なので、セノハチでの後押しがない)。この急行電車は153系で6M6Tの12両編成のためセノハチを単独で登ることは出来ず、電車の後押しが廃止される1968年10月改正までは「宮島」「関門」ともEF61+オヤ35で後押ししていた筈です。いくら50年以上前の記憶とはいえ目の前にあったのが客車だったのか電関のデッキだったのかを間違えて覚えるとは考えにくいので、後押しが無くなる直前はEF59になっていたのかと考えたのですが、いくら調べても153系をEF59が押したという記録は出てきませんでした。写真がないのでEF59だったとも言い切れず謎のまま残ってしまいました。一緒に見た父親は亡くなってしまいましたし…f:id:himetaka2018:20210509171651j:imageその後で尾道大橋を撮影していますが、この時続けてパチパチと2枚撮ったら「勿体ない」と父親に怒られた事を憶えています。
急行「第2関門」下関12:20→姫路19:49
姫新線833レ 姫路20:36→播磨高岡20:42
この姫新線の列車は3桁の列車番号なのでC58牽引ですね。

以上で、1968年の行程は瀬野八の後押し機以外はほぼ解明されました。また電車急行については編成・号車番号・席種別も調査済みで、一等車は冷房・二等車は非冷房でした。
急行 しらぬい:475系12両編成(門ミフ)
熊本←①TcM'McTbTsTsM'McTcTbM'Mc⑫→岡山
Tsはサロ455淡緑帯付一等車で、5号車は自由席、6号車が指定席、また7号車は二等車指定席、60Hz識別用の裾帯は1967年8月生産分から付随車にも付けたので、この頃は全車にあったと思われます(1981年頃に消滅)。
急行 開門:153系12両編成(大ミハ)
下関←①TcM'MTbTsTsTbM'MM'MTc⑫→大阪
Tsはサロ152淡緑帯付一等車で、5号車は自由席、6号車が指定席。

この次の年の1969年夏には北陸を旅行しており、1968年10月の改正で復活した急行「ゆのくに」で東尋坊永平寺へ行ったはずですが、記憶も写真もほとんどありません。
①電車急行の「ゆのくに」に乗車、金津から三国線に乗り換えて東尋坊に行った。金津を出てすぐにトンネルがあったことを覚えている(昔はトンネルが好きだったみたいです)。
東尋坊に向かったバスの中から線路を見た。
③泊まったのは芦原か三国だった。
④電車に乗って永平寺に行った。

①の急行は大阪を時50分に発車する「ゆのくに1号」で金津に13時丁度に着きます。三国線は乗車した2年半後の1972年2月29日付で廃止となり、翌3月1日に金津は芦原温泉に改称されました。また記憶にあるこのトンネルは千束トンネルで、拡幅されたものの現存しています。
②の記憶から線路は京福電気鉄道三国芦原線で、これを見たことから京福電鉄には乗り継がずに三国駅から東尋坊行きのバスに乗ったものと思われます。
③と④の記憶から、宿から三国線で金津まで戻り、この駅から出ている京福電気鉄道永平寺線(乗車直後の1969年9月18日に金津-東古市間が廃止)に乗って永平寺に行き、帰りは東古市で越前本線に乗り換えて福井駅へ出たと考えられます。
この旅行は、性格上母がいないと飯を食わない父親が来なかったので、餓死しないように1泊だけの旅行だったと記憶しています。
なお、この7年後の1976年3月にも大学受験のために福井を訪れており、その帰りにディーゼル急行のデッキで縦に揺られながら鳩原のループを見たことを覚えています。米原経由のため琵琶湖も同じ方向に見えていたはずですが、こちらは全く記憶にありません。この列車は1978年9月末まで走っていた七尾線乗入れ輪島のキハ58系急行「ゆのくに2号」で、穴水-金沢間は珠洲発の急行「能登路4号」を併結し、金沢-大阪間は新潟発の急行「越後」に併結されていました。何故か福井で13分も停車し、大阪に18時08分着です。
急行「ゆのくに1号」12両編成(金サワ)
大阪←①Tc M'McTcTsTsTbM'McTcM'Mc→金沢
1〜4号車が普通車の指定席で5・6号車がグリーン車の指定席、車両は471/473/475系。
急行「ゆのくに2号」キハ58系4両編成
大阪←①DcDcDcDcDsDc+DcDsDcDc+DcDc⑫→金沢
1〜6号車は新潟発大阪行の「越後」、7〜10号車が輪島発大阪行の「ゆのくに2号」で11・12号車は珠洲発金沢行の「能登路4号」、グリーン車2両と6号車が指定席、所属は1〜10号車が長ナノで他が大ミハ。

1969年の北陸に出てくる京福電気鉄道福井鉄道部は、2000年12月17日のブレーキロッド破損による正面衝突事故と、2001年6月24日の見習い運転手の信号見落しによる正面衝突事故のため2001年10月19日に廃止され、2003年からえちぜん鉄道として営業再開されています。儲からない鉄道を存続させたのは、鉄道が無くなった2001年の積雪時に、幹線道路が大渋滞して通勤通学が困難になった事が一因とも言われています。

残念ながらこの時代の車両は記憶が薄いためか思い入れも少なく、非冷房化など製品にかなり手を入れる必要もあってN・Bトレとも作る予定はありません。

 

以上

 

飯田線の電機たち① ED19と小貨物列車

KATOからED19が発売されました。実車が全部で6両しかなかったにもかかわらず3両目の製品化です。f:id:himetaka2018:20210131023812j:image飯田線の初訪問は1983年2月なので、残念ながら実物のED19は見ていません。f:id:himetaka2018:20210130155400j:image東海道本線の東京~国府津間の電化に際して1926年にウエスティングハウス社から6両輸入された6010形が、1928年10月の車両形式称号規程の改正によりED53となり、1937年に開通した仙山線用に4両が貨物用に改造されED19に、残った2両も1941年に貨物用・ED19となり身延線で使用されました。1948年時点で1号機が西国立機関支区にいた他は豊橋機関区に在籍して飯田線で運用、1950年代後半には全機が伊那松島機関区に集結して飯田ー辰野間で活躍、1976年にED62に置き換えられて廃車されました。f:id:himetaka2018:20210130174737j:image作並機関区にいた4両はスノープロウを取付けるためにデッキのステップを改造しており、戦後の車体改修で5号機が全溶接構造の車体に更新、2号機は内部機器を含めた改修工事を受けて屋根上機器の配置が変更され、3-6号機は運転台前面の窓が隅にrがついた形態に更新、1-4号機の車体側面ルーバーが横並び型に変更されました。f:id:himetaka2018:20210130164211j:image2号機:「10-1184 ED19+タキ10600セメント輸送列車<明星セメント>6両セット」に含まれている製品です。前面窓は原形(大窓・窓枠有)、車体側面ルーバーは改装横形、標識灯は電車用のガイコツ形、パンタグラフはPS14で避雷器の位置がパンタグラフ寄りになっている事まで正しく再現されていますが、ガラベンの間隔が他の2両に比べてもうちょっと広いはずです。f:id:himetaka2018:20210130173632j:image4号機:「3078-2 ED19(省形ヨロイ戸)」で今回発売された製品です。前面窓は改装形(R付の小窓)、車体側面ルーバーは改装横形、標識灯はカンテラ形、パンタグラフはPS15で目立った特徴は全て再現されていますが、なぜか車体側面ナンバープレート下の銘板がありません。f:id:himetaka2018:20210130173645j:image6号機:「3078 ED19」で2号機のセットと同時に発売された製品です。前面窓は改装形(R付の小窓)、車体側面ルーバーは原形、標識灯はカンテラ形、パンタグラフはPS15で車体側面の銘板まで再現されています。残念な事にデッキのステップが改造後の姿です。f:id:himetaka2018:20210130174718j:imageED19は6両しかないくせに全車形状が異なるという鉄道模型的にはたいへん興味のある機関車で、金属キットならいざ知らず量産プラスチック製品でここまで違いを再現しているのは素晴らしいと感じました。KATOには飯田線フリークが在籍されるているんでしょうか?f:id:himetaka2018:20210130174759j:imageさて、製品はカプラーを付属のナックルに交換しただけです。何故かPS15パンタグラフを上げたときの形状がイマイチです。そのままでは上がり過ぎになるのでちょっと下げたいのですが、その位置では止まってくれません。f:id:himetaka2018:20210130181738j:imageまた3両とも特定番号機なのでナンバーは印刷にして欲しいですね。f:id:himetaka2018:20210131025433j:image機関車だけでは寂しいのでED19 2が入っていた「10-1184 ED19+タキ10600セメント輸送列車<明星セメント>6両セット」の貨車をカプラー交換して使います。f:id:himetaka2018:20210131025110j:imageカプラーは28-187 車間短縮ナックルカプラー黒(ボギー貨車用)を使います。ワフ29794は2軸ですが、これまでに交換して余っているスプリングをカプラーポケット内にセットしてこのカプラーを嵌め込みました。f:id:himetaka2018:20210131025502j:image車掌室側は付属のダミーカプラーに交換します。f:id:himetaka2018:20210131023251j:image車間短縮カプラーの威力は絶大で、今まで間延びしていた貨物列車がとっても実感的になりました。f:id:himetaka2018:20210131023308j:imageただ連結はいちいち車両を持ち上げてやる必要があり、ムチャクチャ手間がかかります。Nゲージ走行確認用の線路がないので、走った時にカプラーがどうなるかは不明です。ミテクレに惑わされて先走ってしまいましたが、これでカーブ曲がらんかったら戻さんといけません…

 

以上

 

1992年秋の肥薩線 吉松行普通列車

年末に「はやとの風」や「いさぶろう・しんぺい」「SL人吉」で旅行した肥薩線を紹介しましたが、それ以前の1980年から1993年9月の間にも4回ほど乗車しており、思い出のある列車のいくつかは模型でも再現していこうと考えています(写真は1983年10月に肥薩線中福良–表木山間で撮影した吉松発西鹿児島行の快速やたけ)。f:id:himetaka2018:20210110200907j:image最初は1992年9月5日に隼人から吉松まで乗った非冷房のキハ58系 2両編成です。9月初旬にもかかわらず暑い思いをして乗っていた記憶がないので、山の中を走るため結構涼しい風が入って快適だったのではないかと思っています。非冷房車で廃車が決まっていたためか、JR九州色には塗られていませんでした。f:id:himetaka2018:20201230174059j:image当初は30年くらい前に入手したKATOキハ58系用非冷房屋根板セットを使って、ムギ球・旧室内灯仕様のキハ58/28冷房車をナンチャッテ非冷房化していました。f:id:himetaka2018:20201230174156j:imageいずれも屋根板を非冷房用に交換して床下をグレー塗装し、旧室内灯(11-201)を装備しました。f:id:himetaka2018:20201230175104j:image妻板の冷房装置用配電盤も床下の4VK発電セットも装備されている2000番台の非冷房車です。f:id:himetaka2018:20201230160929j:image初期のKATO製10-169キハ56系タイプ2両セットを持っていたので、これの床下が使えないか検討もしています。この製品はキハ56/27といいながら窓の二重化や小型化はされていません。f:id:himetaka2018:20201230162004j:image屋根板は非冷房で、妻板も配電盤はなく窓が設置されている非冷房仕様ですが、残念ながら床板は流用されており冷房電源用発電セットがぶら下がっていました。f:id:himetaka2018:20210111135846j:imageその後KATOから発売された非冷房キハ58系「ざおう」のセットバラし品を見つけたため、これを使うことにしてこれらの旧製品改造車は1970年の急行「あしずり」に転用します。f:id:himetaka2018:20210111135818j:image新規に用意したのはキハ58のM車(写真右)とT車(写真左)で、もともと非冷房の車体なので改造する必要はありません。車番は590と603で所属も山形(秋カタ)ですが、これらを綺麗に消せるとは思えないのでそのままとします。T車はキハ28にするつもりでしたが、非点灯のキハ28にはライトユニットだけでなく導光部も付いていないことがわかったためです(点灯化するにはライトユニット付のキハ58を1台潰す必要がある)。f:id:himetaka2018:20210106225357j:image前面はT車M車共通で、運転台部分の照明ユニットを外して「急行」表記の前面種別方向幕を車内側から押し出して抜き白地に変更、シャッター式タイフォンも引き抜いて「Z06-1477 キハ58タイフォン(暖地用)」のスリットタイプに交換します。f:id:himetaka2018:20210108092126j:image前面種別方向幕に「普通」を、その両側に「架線注意」を貼ります。またT車のジャンパ栓はケーブル付にしてクリーム色のケーブルをエナメルのフラットブラックで塗装、M車はケーブルなしとしてホロを取付けます。f:id:himetaka2018:20210110022819j:imageノッペリ感を消すためにタイフォンと渡り板および車体側面の給水口にウェザリングブラックでスミ入れし、Tomixの98283国鉄キハ58系急行ディーゼルカー(由布)セットに付属していたJRマークとシルバーシートマークを転写しました。商標の関係からかJRマークの一般販売がなくなって久しい中、Tomixのキハ58系製品に付属されているのは嬉しい限りです(特にこのセットはJR九州の赤字)。なおシルバーシートマークは運転席を左側にした側面のみです。f:id:himetaka2018:20210110020804j:imageこのJRマークの位置がクセモノで、危うく間違えてとっても貴重なJRマークインレタをパァにするところでした。通常のマークは白色で、キハ58/28/65共通で運転席を右にして運転席側の客扉から3つ目(1つは戸袋窓)の窓の下に、運転席を左にした場合は連結面の客扉から3つ目(1つは戸袋窓)の窓下に入っています。ところがJR九州だけ赤字で、キハ58/28はどちら側から見ても運転席側の客扉から5つ目(1つは戸袋窓)の窓の下に入っています。またキハ65は4人席窓の5つ目と6つ目の間で、なぜかキハ58/28と区別されています。f:id:himetaka2018:20201230182814j:imageT車はカプラーに付いているスノープラウをニッパーで除去しました。f:id:himetaka2018:20210111142420j:imageM車は「6113C3 キハ58 カプラーセット」が手に入ったので交換しました(運転席側用と妻面用があります)。どちらも見栄え向上のために付属の連結器胴受を取り付けました。f:id:himetaka2018:20210103233558j:image室内灯はT車にKATO純正のLED室内灯クリア6両分入(11-212)を、M車にTORM.のLED室内灯・汎用・白色(TL-032)を使用しました。バラバラなのはどちらも1個しか在庫がなかったためで、購入したら入れ替えるつもりです。f:id:himetaka2018:20201230003225j:imageM車は新タイプの動力車の取付け方法が変わったため、使った室内灯ユニットは純正品と異なり一体型になっているので加工が必要です。室内パーツにある基板押さえのツメをニッパーでチョッキン!で室内灯ユニットの端が導電パーツ取付部にハマるように取付けます。f:id:himetaka2018:20210111143846j:image室内は青一色に変更されましたが、残念なことに明る過ぎてモケットの色とはかなり違うため塗装します。こんな色にするくらいなら、ベージュの方が後々の手間がかからなくてよかったですよ、KATOさん。f:id:himetaka2018:20210106164028j:image床をGM09ねずみ色1号で、シートのモケット部をGM22ブルーBで、シート本体をタミヤカラーXF-12明灰白色で、仕切り板(壁)をMr.カラー321黄土色で筆塗りします。f:id:himetaka2018:20210106164053j:image室内灯ユニットを取り付けて車体を被せてお仕舞いって思ったけどなんか変。実車の写真を確認すると…列車無線アンテナがない!そっかKATO製品は国鉄時代の設定やったんや。f:id:himetaka2018:20210110225829j:imageということで、Tomixの「JA14 列車無線アンテナ」を用意し、取付足の幅である2mm巾のマスキングテープをM車の屋根に貼り中心部に0.5mmの孔を開けて取り付け…入らん!穴の位置は合っているのですがライトユニットに当たって奥行きがないみたいです。結局取付け足を短くしてゴム系接着剤で取り付けました。T車は単純に取付け足を切り飛ばしてゴム系接着剤で貼り付けました。f:id:himetaka2018:20210111144340j:imageさて今回の室内灯はKATO純正品とTORM.製品を使ったので、簡単に比較します。f:id:himetaka2018:20210111161529j:image並べてみると違いが一目瞭然ですね(左がKATO純正品で右がTORM.製品、いずれも白色)。f:id:himetaka2018:20210112153412j:imageKATO純正品はプリズム方式にもかかわらず偏りがありませんし、明るさもそこそこです。私の持つ実車のイメージは「明るいけど光っていない」ですから、こんなもんだと思います。ただ色は黄色過ぎる気がします。f:id:himetaka2018:20210112153552j:imageTORM.製品は多LED方式ですが光源付近とそれ以外で偏りが若干見られます。また明る過ぎ!で煌々と輝いて走っていますが、レンタルレイアウトに持っていくと落ち着いて見えるんでしょうか?色は蛍光灯の感じがよく出ていると思います。f:id:himetaka2018:20210112154257j:imageまたKATO製品をつけた時の室内の色が、塗装した時にイメージした色が再現出来ている気がします。f:id:himetaka2018:20210112154615j:imageなおタブレットキャッチャーと客扉のタブレット保護格子はパーツが手に入らなかったこともあり省略しました。JR九州色やJR九州急行色になったものは全て撤去されていましたが、国鉄急行色のまま廃車されたものは恐らく撤去されなかったのではないかと思っています。f:id:himetaka2018:20210112154646j:image行先サボは「隼人–吉松」を探しています。

次はこの列車から乗り継いで吉松→人吉・球泉洞→熊本を乗車した、JR九州急行色のキハ58+キハ65の急行「えびの」です。

 

以上

2013年春と2017年秋の肥薩線・豊肥本線

マイクロエースから発売された「はやとの風」と「いさぶろう・しんぺい」を整備したのを機に思い出した、2013年5月と2017年10月の肥薩線縦断旅行を振り返ります。f:id:himetaka2018:20201211152826j:image写真は模型整備時に掲載した「はやとの風2号」(2017年10月20日 大隅横川駅)で、これで鹿児島中央から嘉例川駅大隅横川駅を経由して吉松に行きました。f:id:himetaka2018:20201229214834j:image吉松駅では時間待ちの間に、駅前のC55 52を見学しています。f:id:himetaka2018:20201211153243j:image吉松から「しんぺい2号」(2017年10月20日 真幸駅)で、各駅と日本三大車窓を経由して人吉に行きます。吉松を出発して4つ目のトンネルが、1945年8月に肥薩線列車退行事故を起こした山神第二トンネルで、古いトンネルのため内部の幅が一定でなく急激に狭くなる部分があり、窓に顔を貼り付けていると結構迫力があります。f:id:himetaka2018:20201211153621j:imageスイッチバックして高度を稼いだ本線上から真幸駅を俯瞰します。ホームの上には1972年7月の山津波後に設置された幸せの鐘が見えます(残念ながら山津波記念石は写っていません)。f:id:himetaka2018:20201215162022j:imageSL終焉時代の真幸駅には廃車された蒸気機関車が駐留されており、1970年9月の鹿児島本線全線電化後にはC60 28とD51が、1972年4月の肥薩線の山線無煙化後にはD51 687とD51 890が置いてありました。「広報えびの 2009年12月号」には、廃車回送でC60とD51を引いて真幸駅を発車する38633の写真と、土砂に埋もれた2両のD51が写っている山津波直後の真幸駅の写真が掲載されています(えびの市役所ホームページから見ることができます)。f:id:himetaka2018:20201210132057j:image矢岳駅前の人吉市SL展示館にはこの区間で使用されていたD51 170が展示されています。このカマは戦後直ぐの1945年11月に人吉に来て、重油併燃装置(罐胴上とランボード上に重油タンク設置)とエアシリンダ式の鹿児島工場式大型集煙装置を装備され、1972年6月に廃車されるまで矢岳越えに活躍しました。f:id:himetaka2018:20201230141314j:imageこのSL展示館は1993年9月に初めて訪問しましたが、矢岳駅で急行「えびの」から降りたのは我々だけで、展示館の入口はシャッターが降りていて案内も人影もなく、えぇんかな〜と思いながら勝手にシャッターを開けて中に入って見学しました。f:id:himetaka2018:20201210141229j:imageこのSL展示館にはSL人吉(2013年5月1日 人吉駅)で活躍する58654も静態保存されていました。この58654は1968年6月に人吉に来て1975年3月に廃車されるまで湯前線で使用されていました。f:id:himetaka2018:20201210181713j:image1988年8月からボイラーと走り装置を作り直しSLあそBOYとして豊肥本線の急勾配区間を含む熊本–宮地間で走行を開始しました。1991年9月6日に熊本–宮地間を乗車しました(写真は宮地駅にて撮影、水戸岡デザインが入る前の原形)が、当時は機関車に興味を持つ人が少なく、熊本駅で写真を撮ったのは私達夫婦だけで、運転士席に座らせてもらった上、カマの中まで見せていただきました。f:id:himetaka2018:20201213014648j:image見所である立野のスイッチバックも当時は何の案内もなく展望室で待っていたのは我々だけでしたが、なぜかこのタイミングでビンゴ大会が開催されスイッチバックを見ない方々で展望室が満員になってしまうという不思議な現象が起こりました。f:id:himetaka2018:20201230132047j:imageまた1993年9月にも乗りに行ったのですが、大雨の影響で豊肥本線が運休となり乗車できず、次の日に高千穂峡を見た帰りに撮影しました(赤水–立野、水戸岡デザイン後の姿)。f:id:himetaka2018:20201230132110j:image2005年に台枠が歪んでいることが発覚して使用停止、そのまま静態保存に戻るところを奇跡的に製造時の図面が発見され、九州新幹線開業の祝儀もあって台枠を作り替えて復元!SL人吉として肥薩線の川線区間で大切に使われています。ボイラーも台枠を含む足回りも全部作り直したので製造当時の部品は何もありませんが、大正生まれと称されています。f:id:himetaka2018:20201213164314j:imageまぁ京都鉄道博物館にいる、理由もなくいつのまにか後期型のキャブになっちゃったバリバリ前期型ナンバーの8630と称しているカマよりはマシですが(梅小路蒸気機関車館にて撮影日時不明)。f:id:himetaka2018:20201210150025j:imageさて人吉で昼食を取り、人吉鉄道ミュージアムMOZOCAステーション868を見学してから「SL人吉」(2017年10月20日 一勝地駅)に乗って熊本に出ました。f:id:himetaka2018:20201213221850j:image白石駅JR九州が量産しているコイルバネ特急のタネ車であるキハ40と交換します。f:id:himetaka2018:20201213224305j:imageこの停車時間を利用してSL人吉の50系客車700番台を撮影しました。SLあそBOYの頃からは大幅に改装されています。f:id:himetaka2018:20201210152409j:image鎌瀬駅の手前で有名撮影地(お立ち台)である球磨川第一橋梁を渡ります(2017年10月20日SL人吉から撮影)が、令和2年7月豪雨により流失して跡形も無くなってしまいました。f:id:himetaka2018:20201211164055j:imageその後、坂本駅ではコイルバネ特急の「うみせみ・やませみ」と交換しました。f:id:himetaka2018:20201214002035j:image2017年10月20日時点で熊本駅は高架工事の真最中でした。f:id:himetaka2018:20201210162329j:image2013年に訪問した時は熊本からキハ183系1000番台の「あそぼーい!」で立野へ行きました(2013年5月2日 熊本駅)。f:id:himetaka2018:20201211001901j:imageこのキハ183系1000番台は、1988年3月にオランダ村特急(1991年9月7日 佐世保駅)でデビューしたあと、ゆふいんの森二世(1994年11月7日 豊後森駅)→シーボルトゆふDXと名前も容姿も変えながら32年以上も活躍しています。f:id:himetaka2018:20201230133808j:imageジョイフルトレインをせっせと作ってはホイホイ廃車にしたJR北海道とはエライ違いです。なおこのキハ183 1000番台は世界初のEC-DC動力協調運転を行なっています。f:id:himetaka2018:20201210234900j:image立野から南阿蘇鉄道(高森駅で2013年5月2日に撮影)に乗り、高森湧水トンネル公園へ行きました(高森町HPから転載)。f:id:himetaka2018:20201211003913j:imageこの公園は高森–高千穂間を結ぶためのトンネルを掘削中に地下水脈に当たり、トンネルは多量出水するわ町内は大規模断水するわで工事中止・破棄された高森トンネルを利用したもので、アプローチ部分は完全に鉄道トンネルのそれです。f:id:himetaka2018:20201212214639j:imageまた2017年に訪れた時は熊本港から高速船で島原に渡り、島原鉄道に乗りました(2017年10月21日 島原外港)。2008年4月1日に島原外港加津佐間が廃止されましたが、写真左手奥が廃線方向になります。1981年に諫早口之津を、雲仙普賢岳の噴火が落ち着いた1994年11月9日に口之津諫早を乗車して天草と行き来しています(島原外港は2019年10月1日に島原港に改称)。

オランダ村特急」はかなり以前にマイクロエースの初期製品を購入、吉松のC55と人吉のD51重装備も模型化を考えていますが、いつになることやら…

 

以上